盛岡藩領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/24 09:24 UTC 版)
八戸藩分立が寛文4年(1664年)にあり、九戸郡野田村(盛岡藩領)と久慈(八戸藩領)が藩境となり、藩境には塚が築かれた。盛岡藩領の東海岸の「東浜街道」または「三閉伊通」(大槌通・宮古通・野田通)と呼ばれた、現在の釜石市からに久慈市かけて海岸線に沿い街道が整備されていた。宮古湊のあった鍬ヶ崎浦と代官所のある宮古村の二つの町は、閉伊川の河口に開け、陸中沿岸で獲れた海産物の移出や東北太平洋岸海運の要所として廻船問屋や海産物の仲買商人たちが軒を並べて賑わった。また、寛永年間には宮古街道(閉伊街道)も整備され、盛岡の外港として重要視された。
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