盛岡藩の被害者数
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 21:27 UTC 版)
五戸通の餓死者は1万人を越え、雫石・福岡・沼宮内・花輪・上田の各通でも多くの餓死者が出た。盛岡以北の奥通や奥羽山脈側の地域に餓死者が集中し、花巻以南の北上川流域は比較的少なく、奥通であっても田名部通や野辺地通といった最北部はそれほどでもなかった。盛岡藩の総人口は、宝暦5年の35万8222人から同6年には35万6005人になったされているが、菊池勇夫はこれは幕府を意識した数字操作で、実際の餓死者数はおよそ5万人をくだらないと考えている。死者数は6万余ともいわれ、南部駒として有名なこの地域の馬も2万余匹が死んだという。 人々は山に入って蕨の根や木の皮を探し、実らなかった稲の株をそのまま釜で煮て食った。痩せ衰えて黄疸を病んだような顔色の人々が村から村へさまよい、路傍に倒れる者がいても足を止める人はいなかったという。宝暦5年10月中旬ごろには飢民の群れが城下に流れ始めた。城下の住民も、豊かでない家の者は甘藷を求めて商家の軒先に列を作った。寺院や寺社の門前だけでなく、山や川にまで我が子を捨てる親も多かった。盛岡城下でも餓死する者が出るようになり、11月から12月にかけて子供を道連れにして川に身を投げて死ぬ親が何人も出た。 宝暦5年12月には、城下の報恩寺と久昌寺が飢人の救済を開始。藩は領内の富豪から御用金を集め、幕府から貸し出された金をあわせて、翌6年正月に城下の永祥院と円光寺に萱葺きの救小屋を建てた。円光寺の小屋は約218坪ほどであったが、2月ごろには1800人を超える飢人がいたという。これにより永祥院で1170人、円光寺で1350人が救われたと伝わる一方で、彼らには水1升に対し米8勺(約144グラム)だけの粥を朝夕2回施されただけで、あまりのひどさに「南無カユ陀仏、ウスイ菩薩」といいながら人々は死んでいったという。小屋に入ることを恥じて、まずわが子を川に投げ入れ、自分もつづいて身を投じて死ぬ者もあった。どうせ死ぬのなら我が家でと、自分の家を目指して出て行く者もいた。毎日50人前後の飢人が餓死または凍死し、宝暦6年4月までに死者は永祥院で4500人、円光寺で800人に達した。宝暦6年の代官の報告書によると、同5年の餓死者4万9594人、空家が7043軒にも達した。もっとも被害が大きかった三戸郡五戸通では餓死者は1万1927人に達し、ついで雫石通、福岡通、沼宮内通の順に餓死者数は多かった。 猿橋義近の『自然未聞記』によると宝暦5年、6年の餓死者はあわせて10万人ほどで、それ以外に他領へ出奔した者は3000人ほどだったとしている。 仙台藩岩谷堂の遠藤志峯が著した「荒歳録」には、宝暦5年10月から翌6年10月にかけて、金ヶ崎の往還筋(奥州街道)や江刺郡岩谷堂で、南部・津軽・秋田方面から南方に行く離散者たちが幾千人となく通過していったと記されている。離散者たちは5人、7人または10人余のまとまりで、食べ物や衣類のような荷物をそれぞれ背負い、「景気よき方」を尋ねて仙台領を歩き、さらには関東・江戸などへ向かった。寛延2年の飢饉の時にも、北奥からの離散者が見られたが、今回はそれに「倍々」する数であったという。盛岡藩南部の沢内通の年代記に、餓死者の死骸が累々と「道の街々」に満ち、「建武軍」(南北朝の動乱で死んだ者)の数を合せても、こたびの飢饉にはおよばないとされた。さらにこうした離散者の女子供を狙った人買いも横行したという。
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