人物主義の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 03:35 UTC 版)
明治維新以来、修身教育はさまざまな論争が展開されてきたが、教育勅語の発布(1890年(明治23年)10月30日)によって、方向性が示され次第に収束していった。翌1891年(明治24年)には「小学校教則大綱」(11月制定)と「小学校修身教科用図書検定基準」(12月制定)が策定され、勅語の中に示された孝行・博愛・義勇など12の徳目にしたがった教科書がわずか2年のうちに80冊も検定を通過した。 これらの教科書は徳目主義と呼ばれる構成をとっていた。これは、勅語に示された徳目を順に配列し、学年を追うごとに徐々に程度を高めていく、というものであった。しかし、このような「教育勅語の徳目解説書」とも言える無味乾燥な教科書は、当時流行していたヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト学派の思想の影響を受け、児童・生徒の興味を喚起すべく、歴史上模範となる人物の伝記を主体とするものに代わっていった。
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