シリア侵略 (1260)
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「フランクとモンゴルの同盟」の記事における「シリア侵略 (1260)」の解説
バグダード陥落の後、1260年にモンゴル軍はキリスト教徒と共にイスラム勢力のアイユーブ朝の支配地域だったシリアを征服した。彼らは1月には共同してアレッポの都市を奪取し、そして3月にはキリスト教徒でもあるモンゴルの将軍キト・ブカの指揮により、アルメニア軍を伴ったモンゴル軍とアンティオキアのフランク軍はダマスカスを奪取した。アッバース朝とアイユーブ朝の両国の滅亡と共に「近東地域は二度と文明の中心となることは無かった」と、歴史家のスティーブン・ランシマンは述べている。アイユーブ朝の最後のスルタンアン=ナースィル・ユースフ(英語版)はその後間もなく死亡し、イスラム社会の中心はバグダードとダマスカスを離れ、エジプトのマムルーク朝の首都カイロに移った。モンゴル軍はエジプト方面への進撃を継続しようとした矢先、大ハーンのモンケが逝去したことにより撤退を余儀なくされた。フレグは大ハーンの地位の継承を狙っており、急いで首都カラコルムに戻り、彼の軍の大半を引き連れて権勢を誇る必要があった。そのため、彼の留守中、わずかな軍とともに将軍キト・ブカを残し、パレスチナ地域を占領させることとした。ガザに駐屯した約1,000名の守備隊からなるモンゴル軍はパレスチナをエジプト方面に向かい南へ送られた。。
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シリア侵略 (1280–1281)
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「モンゴルのシリア侵略(英語版)」も参照 欧州諸国からの支援が得られず、十字軍国家 (ウトラメール、特にマルガット城に残る聖ヨハネ騎士団と、キプロスとアンティオキアのキリスト教国家) の一部の西欧人は、1280年–1281年にかけてモンゴルと協同作戦で結び付こうとした。1277年、マムルーク朝のスルタン、バイバルスの死去はイスラム地域の混乱につながった。そして、聖地において他の派閥が新たな行動に出るための好機となった。モンゴルはこの機会をつかんでシリアへの新たな侵略を計画し、1280年9月にバグラス(英語版)とダルビサキ(英語版)を占領し、10月20日にはアレッポに到達した。アバカは、モンゴルの勢いを駆って、使節をイングランドのエドワード1世、アッコの十字軍、キプロスのユーグ3世 (キプロス王)(英語版)とトリポリのボエモン7世(英語版) に派遣し、作戦に対する彼らの支持を要請した。しかし、十字軍側は多くの援助を得るにも彼ら自身十分に組織されていなかった。アッコでは、教区牧師長が、都市は飢えのために損害を受けており、エルサレム王も別の戦争に既に巻き込まれていると応えている。マルガット城 (以前アンティオキア公国、トリポリ伯国であった地域) の地元の聖ヨハネ騎士団は、1280年-1281年にかけて、マムルーク朝に占拠されたクラック・デ・シュヴァリエまでそう遠くないベッカー高原を襲撃することが出来た。アンティオキアのユーグ3世とボエモン7世は彼らの軍を動員したものの、彼らの軍隊はバイバルス死後の混乱を経て後継者の地位を獲得した新たなスルタン、カラーウーンの軍によって、モンゴル軍との連絡を阻まれた。カラーウーンは1281年3月にエジプトから軍を北に進め、十字軍とモンゴル軍の間に彼自身の軍を配置した上で、1281年5月3日にアッコの騎士との10年間の休戦協定を更に10年10ヶ月更新し (彼自身がこの休戦を破棄することになるが)、潜在的同盟国を分断することに成功した。彼はまた、1281年7月16日にトリポリのボエモン7世との間でも2回目の10年間の休戦協定を更新締結して、エルサレムへの巡礼者の出入りを認めた。 1281年9月、モンゴル軍は彼ら自身の50,000騎に加えて、キリキア・アルメニア王国のレヴォン3世の30,000騎、ジョージアの軍、マルガット城の騎士200騎を引き連れて戻ってきた。そして、アッコの騎士団がマムルーク朝との休戦協定に同意していたにも関わらず、彼らは部隊を送り込んだ。モンゴル軍と彼らの同盟軍は1281年10月30日に第二次ホムスの戦い(英語版)においてマムルーク軍と戦い、スルタンは大きな損害を被ったものの、対戦の決着は着かなかった。報復として、カラーウーンは1285年にマルガット城の聖ヨハネ騎士団を包囲、占拠した。
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