アルワード島への遠征計画とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > アルワード島への遠征計画の意味・解説 

アルワード島への遠征計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 07:07 UTC 版)

フランクとモンゴルの同盟」の記事における「アルワード島への遠征計画」の解説

詳細は「アルワード島陥落英語版)」を参照 ガザン1300年11月までに戻るであろう発表して十字軍側が準備出来るように、西欧へ使節と書簡を送ったキプロス軍は彼ら自身艦隊襲撃行った後、以前タルトゥースのシリアテンプル騎士団拠点取り戻すためにより大規模な作戦企てた。彼らは当時時点動員可能な最大限兵力 (約600人の男性、アマルリック旗下300騎とテンプル騎士団および聖ヨハネ騎士団からの同様の派遣部隊) を動員した1300年11月、彼らは大陸本土タルトゥース占領しようとしたが、都市支配を得ることは出来なかった。モンゴル軍遅れたその結果キプロス軍は基地確立するために沖合近くアルワード島移り立てこもったモンゴル軍は遅れ続けた。そして、アルワード島守備隊のみを残し大半十字軍兵力キプロス戻った1301年2月ガザン率いモンゴル軍は、ようやくシリアへの進撃開始した。軍はアルメニア部隊として参加したモンゴル将軍クトルグ・シャー(英語版)と、イブラン家ギー英語版)、ジブレのヨハン2世英語版) (ジブレの統治者)によって率いられた。しかし、60,000の兵を率いていたにも関わらず、クトルーシュカはシリア周辺いくらか襲撃を行う以外、何も出来ず撤退した1301年-1302年にかけて、冬季攻勢をかけるためにモンゴル西欧共同作戦計画再度検討された。しかし、1301年秋頃エジプトマムルーク軍によるアルワード島への攻撃が行われた。長期にわたる包囲の末、アルワード島1302年もしくは1303年占領された。マムルーク住民多く虐殺し生き残ったテンプル騎士団捕縛しカイロ牢獄送った1301年末、ガザン教皇書簡送り兵士司祭農民送り聖地を再び西欧領地にするように頼んだ1303年ガザンアルグン外交官でもあったブスカレッロ・デ・ギゾルフィを通じてエドワード1世別の書簡送った書簡では、彼の祖先であるアバカ約束したマムルーク朝への対抗助け西欧エルサレム返還することを再表明している。この年モンゴル軍アルメニア軍伴って80,000騎の大軍動員しシリアへの侵略再度企てた。しかし、1303年3月30日ホムスで再び敗れ1303年4月21日ダマスカスの南のマージ・アル・サファーの戦いで決定的な敗北喫した。これがモンゴルによる最後大規模なシリア侵略であると考えられている。ガザン1304年5月10日逝去し聖地早期奪還するという西欧の夢は潰えた

※この「アルワード島への遠征計画」の解説は、「フランクとモンゴルの同盟」の解説の一部です。
「アルワード島への遠征計画」を含む「フランクとモンゴルの同盟」の記事については、「フランクとモンゴルの同盟」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「アルワード島への遠征計画」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アルワード島への遠征計画」の関連用語

アルワード島への遠征計画のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アルワード島への遠征計画のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのフランクとモンゴルの同盟 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS