アルントに対するバイエルンの「著述刑事訴訟」
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「カール・フィリップ・フォン・ヴレーデ」の記事における「アルントに対するバイエルンの「著述刑事訴訟」」の解説
反動主義時代 (de:Reaktionsära) の初め、すでにナポレオン戦争の時代からヴレーデを批難していたエルンスト・モーリッツ・アルントは、没後のヴレーデをその著作、『帝国男爵ハインリヒ・カール・フリードリヒ・フォン・シュタインとの、我が散策と変遷の途上で(Auf meinen Wanderungen und Wandelungen mit dem Reichsfreiherrn Heinrich Karl Friedrich von Stein、ベルリン、1858年、P.218-219)』で、略奪に走ったとして断罪している。ヴレーデはバイエルン王国とフランスが同盟していた頃、アルントが「粗野、不作法と略奪」の罪に問うその兵士に対し「多くのことを調べただけでなく」、シュレーズィエンのエールス (Oels) で「完全にフランスの元帥のやり方で退却の際、エールス公国の城に収蔵されていた銀を全て、自分の荷物として集めて来させた」ことで「自ら最悪の手本を示した」という。さらにこれが原因となり、ヴレーデがフランクフルト・アム・マインの宿に到着した際、シュタイン男爵は「このような呪われた強盗と同じ部屋を分けはしない!」という言葉を残してその宿を去ったという。この本が発行された年の内に、アルントはこの記述によってバイエルン軍を中傷した罪に問われ、ツヴァイブリュッケンの陪審裁判所に喚問された。しかし89歳となっていた彼は出席せず、本人不在のままで禁錮と罰金を科せられている。この翌年、いわゆる「著述刑事訴訟」の結果として雑誌を中心とする多くの刊行物が発行された。その著者のうちある者はアルントの、またある者はヴレーデの擁護を試みている。
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