バグダード直通まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/24 16:06 UTC 版)
「タウルス急行」と名付けられた列車の運転が始まったのは1930年2月15日である。この列車にはワゴン・リ社の寝台車と食堂車が連結されていた。 イスタンブール・ハイダルパシャ駅を起点とし、対岸のシルケジ駅にシンプロン・オリエント急行が到着してから1時間半後に発車した。旧バグダード鉄道線(1927年に国有化されトルコ国鉄の一部)を通り、コンヤを経由してトロス(タウルス)山脈を越え、キリキアのアダナに至る。山中での最高地点では標高1468mに達している。さらに国境の741mの峠を越えてフランス委任統治領シリアに入り、アレッポに至る。 アレッポから列車は東と南の2つの経路に分岐した。東方面ではトルコ・シリア国境沿いのバグダード鉄道線を走り、トルコ領最後の町であるヌサイビン(トルコ語版)が終点となった。また列車の一部は支線上のマルディンへも直通した。ヌサイビンからはキルクークまで自動車便により接続していた。キルクークは当時のイラクの狭軌(1000mm軌間)鉄道網の北端であり、狭軌の列車によりバグダードやバスラへと乗り継ぐことができた。また狭軌鉄道の支線はペルシア(イラン)国境近くのハーナキーンにも達しており、ここからテヘランまでの自動車便も存在した。当時のペルシアは外国企業に対して閉鎖的だったものの、ワゴン・リ社は粘り強い交渉の末に自動車便の運行とテヘランへの営業所開設を認められた。 南方面では、ホムスを経由しレバノンのリヤックが終点となった。リヤックは当時のレバノンにおける標準軌鉄道の南端であるとともに、ベイルートとダマスカスを結ぶ狭軌(1050mm軌間)鉄道の中間駅でもあり、狭軌列車に乗り継ぐことで両都市と連絡した。またハイファとも自動車便で結ばれており、前述の経路でカイロまで連絡した。 1930年時点では、イスタンブールからヌサイビンまで週2往復、マルディンまで1往復、リヤックまで3往復運転された。 1932年には、タウルス急行からバスラを経由してインド・ボンベイ(ムンバイ)への航路に連絡するようになった。 1933年5月15日にはタウルス急行はトリポリにも直通するようになった。またこの年にはボスポラス海峡での車両航送により、ヨーロッパからアジアへの直通運転の研究が行われたが、実現には至らなかった。 1935年、アンカラとウルクシュラ(トルコ語版)を結ぶ鉄道が開通したことにより、トルコ国内での運行経路がアンカラ経由に変更された。 東方面では1935年にシリア・イラク国境のテル=コチェクまで、1939年3月31日にはモスルまで延長された。 また、1936年11月11日からは全鋼製のSG型寝台車がタウルス急行で使用されるようになっている。1939年には、イラク政府とワゴン・リ社の間で、イラクやイラン、インド方面とヨーロッパの間の郵便をタウルス急行とシンプロン・オリエント急行で運ぶ契約が結ばれている。この郵便輸送は1972年まで続いた。 そして1940年7月17日にイスタンブールからバグダードまでの直通運転が実現した。この時点での所要時間は、イスタンブール・ハイダルパシャ駅からアレッポまで35時間、バグダードまで4日であり、乗り継ぎを含むとベイルートまで48時間、カイロまでは3日半、テヘランまで5日の行程であった。なおロンドン - カイロ間は7日間で結ばれた。
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