メソポタミア・ペルシャ戦線
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「ハリル・クート」の記事における「メソポタミア・ペルシャ戦線」の解説
詳細は「メソポタミア戦線(英語版)」および「ペルシャ戦線(英語版)」を参照 1916年1月10日、メソポタミア戦線の第6軍(英語版)隷下のイラク地域司令官にヌーレッディン・ベイ大佐の後任として任命され、 クート・エル・アマラ(英語版)で包囲されていたチャールズ・タウンゼンド(英語版)中将指揮下の英印軍第6プーナ歩兵師団に対する攻撃を続行した(クートの戦い)。また、1916年1月から1917年3月までバグダッド県知事を兼務した。第6軍司令官コルマール・フォン・デア・ゴルツ元帥が、4月19日にバグダッドでチフスで死亡すると、その後任に任命された。4月29日、タウンゼンドは兵士1万3千人と共に降伏し、ハリルは「クテュル・アマレの英雄」 (Kut'ül Amare Kahramanı)と呼ばれた。5月末、ロシア軍の退却に乗じて、アリ・イフサン・ベイ大佐指揮下の第13軍団をペルシャ戦線に転進させ攻勢を開始させて、6月9日にカスレ・シーリーン、7月2日にケルマーンシャー、8月10日にハマダーンを占領した。ハリルのこの行動は、イギリス軍とロシア軍の合流を阻止した。 1916年秋、攻勢は頓挫した。1917年2月、バグダッドへの脅威に対処するため、第13軍団がメソポタミア戦線に戻され、ロシア軍はハマダーン、サナンダジュ、ケルマーンシャーを奪還した。2月25日、イギリス軍は、クート・エル・アマラを再び占領し、3月11日にはバグダッドを占領した(バグダッド陥落(英語版))。
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