メソポタミアへの支配の拡大とアレッポをめぐる争い
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「サーリフ・ブン・ミルダース」の記事における「メソポタミアへの支配の拡大とアレッポをめぐる争い」の解説
サーリフは新たに確立した権力を利用して、アレッポのそれぞれ東と南東に位置するユーフラテス川方面のマンビジュとバリス(英語版)の町を占領した。これらの町の征服とラフバの支配によって、サーリフは後のミルダース朝の版図となるメソポタミア北部の一部の支配権を確立した。この要衝となる地域は農業と商業、そして戦略面での価値が高く、サーリフはビザンツ帝国(東ローマ帝国)、ファーティマ朝、そしてイラクの支配者の間の連絡を仲介するようになった。その一方で、マンスールが自分の娘とサーリフの結婚やキラーブ族にアレッポの歳入を分け与えることを含む約束のほとんどを反故にしたために、サーリフとマンスールの間の合意は破綻した。サーリフはアレッポを包囲攻撃することで報復し、さらにキラーブ族とベドウィンの協力者が地方を略奪した。マンスールはビザンツ帝国に介入を訴え、ビザンツ皇帝バシレイオス2世(在位:976年 - 1025年)に対し、もしサーリフを放置したままにすればベドウィンの暴動がビザンツ帝国の領内に広がる可能性があると警告した。バシレイオス2世はこれに応じて1,000人のアルメニア人からなる救援部隊を派遣したが、サーリフがマンスールの背信行為をバシレイオス2世に伝え、ビザンツ人に対する友好関係を誓約してビザンツ軍を撤退させた。しかし、ザッカールはバシレイオス2世が自国と隣接しているキラーブ族とその近縁者の勢力であるヌマイル朝(英語版)からのベドウィンの襲撃を避けるためにこれらのサーリフの活動を黙認していたという可能性もあると指摘している。ビザンツ軍の撤退はマンスールの立場をさらに弱め、サーリフの立場を強化した。サーリフはバシレイオス2世への忠誠を示すために息子の一人をコンスタンティノープルへ派遣した。 1016年1月にアレッポの城塞の司令官であるファトフ・アル=カルイー(英語版)が反乱を起こしてサーリフのアミール政権を支持し、ファーティマ朝のカリフであるハーキムのアレッポへの宗主権を認めたために、マンスールはアレッポから逃亡してアンティオキアへ亡命した。アレッポの年代記作者によれば、反乱はサーリフと連携して実行され、サーリフはアレッポの歳入の取り分を回復し、マンスールの母親と妻、そして娘たちを保護した。サーリフはすぐに保護した女性たちをマンスールの下へ送ったが、以前の取り決めに従ってマンスールの娘と結婚するために娘の一人を手元に残した。マンスールの追放とその後のシリア北部における混乱を受けてバシレイオス2世はシリアとエジプトに対するすべての通行と交易を停止させたが、サーリフはバシレイオス2世を説得してアレッポとキラーブ族をこれらの制裁の対象から除外させた。ファトフはアレッポに対する支配を維持するためにアリー・アッ=ダイフが統治するアファーミーヤ(英語版)からファーティマ朝の部隊を招き入れた。ハーキムはサーリフにアサド・アッ=ダウラ(国家の獅子)のラカブ(尊称)を授け、アリー・アッ=ダイフへ協力するように要請した。しかし、サーリフはアレッポへのファーティマ朝軍の駐留に反対し、ファトフが城塞を支配してキラーブ族が都市を支配するという取り決めを提案した。ファトフは好意的な反応を示したが、アレッポの住民はハーキムによる各種の免税措置を享受し、ベドウィンによる支配に反対していたために噂となったこの取引に抗議してファーティマ朝による支配の確立を要求した。ハーキムはファトフにティールへの転出を強要し、アレッポに増援部隊を派遣した。この出来事によってサーリフはアレッポの奪取を阻止されることになった。それでもなお、マンスールの逃亡とファーティマ朝の不安定な統治はメソポタミア北部における支配の強化を可能にした。サーリフは自身の政府と部族の宮廷を構え、早くも1019年にはミルダース朝の著名なパネジリスト(英語版)(称賛者)となったアラブの詩人のイブン・アビー・ハスィーナ(英語版)が訪れた。 その一方でハーキムは1017年にアレッポの総督としてアルメニア人のグラームであるアズィーズ・アッ=ダウラ(英語版)を任命した。アズィーズはサーリフと友好関係を築き、サーリフの母親をアレッポに住まわせて関係を強化した。アズィーズの5年間の統治期間中におけるサーリフの活動について史料での言及はみられない。ザッカールによれば、これはサーリフがこの期間を通して「要求が満たされ、満足し続けていた」ことを示している。ファーティマ朝に戦いを挑める程の規模ではなかったものの、サーリフはアズィーズからキラーブ族に対するアレッポ周辺の平原地帯の支配権を与えられた。1022年までにサーリフは支配地をユーフラテス川沿いの双子の町であるラッカとラーフィカにまで拡大した。事の真偽は明確ではないが、同じ年の7月にアズィーズはトゥルク人のグラームであるアブル=ナジュム・バドル(英語版)によって暗殺され、バドルが短期間アズィーズの後を継いだ。その後のアレッポは短期間での総督の交代が相次ぎ、最終的にスウバーン・ブン・ムハンマド(英語版)が都市の総督となり、マウスーフ・アッ=サクラビーが城塞を支配した。
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