メソポタミア侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 13:21 UTC 版)
「ニネヴェの戦い (627年)」の記事における「メソポタミア侵攻」の解説
統葉護可汗にトビリシ包囲を任せたヘラクレイオスは627年11月、25,000から50,000の東ローマ兵と40,000の突厥兵を率いてメソポタミアへ進撃したが、突厥兵は異国の慣れない冬の気候のため、早々にヘラクレイオスを見捨てた。ヘラクレイオスはラーザード(英語版)率いる12,000のサーサーン朝軍の追尾をかいくぐり、ペルシア帝国の心臓部であるメソポタミア(現イラク)に侵入した。 ヘラクレイオスは道すがら食糧と飼い葉を略奪していったため、追跡するラーザード軍は糧秣の確保に苦しむこととなった。 12月1日、ヘラクレイオスはティグリスの支流ザバスを南から北に渡り、古代のアッシリア帝国の都ニネヴェの廃墟の近くに野営した。北へ移動したのは、万が一の場合にペルシア軍に退路を断たれるのを避けるためだった。ラーザードは東ローマ軍と別方向からニネヴェに接近した。ペルシア軍に援軍3,000が合流しようとしているとの知らせを受けたヘラクレイオスは、宿営地を引き払いティグリスを渡って撤退するかのように見せかけた。
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