トラヤヌスの侵入
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ヴォロガセス1世の治世末期、少なくとも78年4月からセレウキアでパコルス2世(在位:78年頃~115年頃)が王としてコインを発行しているのが確認されている。彼とヴォロガセス1世の関係は確執があったであろうこと以外ほとんど何もわからない。80年から81年にかけては別の王位主張者、アルタバノス3世(アルタバーン3世、在位:80年頃-81年頃)がやはりセレウキアでコインを発行している。パコルス2世は82年か83年までには対立する王たちを駆逐していたが、長期に渡る統治にもかかわらずセレウキア、クテシフォンでの彼のコイン発行には空白期間が数多く見られ、支配は安定しなかったと見られる。105年か106年にはパコルス2世と対立する王としてヴォロガセス3世(ワルガシュ3世、在位:105年頃-147年)が登場し、109年か110年にはパコルス2世の兄弟か義兄弟のオスロエス1世も王としてコインを発行し始めた。年代を記録したパコルス2世のコインは97年を最後に、一度の例外を除き途絶えているが、101年に後漢に使者を派遣した安息(パルティア)王満屈復はパコルス2世であると推定され、またローマで皇帝トラヤヌス(在位:98年-117年)に反抗したダキア人デケバルスがパコルス2世へ使者を送っていることなどから、対抗者が立った後もしばらくの間は王として地位を維持していたと見られる。この間のパルティアの事情はほとんど詳らかでない。 110年代初頭、パルティア王オスロエス1世がアルメニアの王位継承に介入し、ローマと相談することなくアルメニア王シナトルケス(英語版)を廃立し、パコルス2世の息子アクシダレスを擁立すると、ローマ皇帝トラヤヌスは軍事介入を決定し、再びローマとの戦いが始まった。113年、オスロエス1世はこのローマ軍の脅威を受けてアクシダレスを廃位し、代わってやはりパコルス2世の息子で、アクシダレスの兄弟であるパルタマシリスを改めてアルメニア王とし、トラヤヌスが戴冠するという妥協案を提示した。トラヤヌスはこの提案を拒絶し、前114年春にはシリアのアンティオキアに移動、5月にはアルメニアとの国境の都市サタラに着陣して、ドナウ方面からの分遣隊を含む8個ローマ軍団からなる空前の規模のローマ軍を集結させた。トラヤヌスがアルメニアに侵入を開始するとパルタマシリスは戦わずに降伏したが処刑され、アルメニアがローマの属州であることが宣言された。ローマ軍はルシウス・クイエトゥス(英語版)の指揮でアディアベネの領域にあったニシビスも占領した。これは北メソポタミアの平原を横切る全ての主要街道を確保するために不可欠であった。 翌年、トラヤヌスはメソポタミアに侵攻したが、アディアベネのメバルサペス(英語版)による微弱な抵抗しか受けなかった。メバルサペスが打ち破られた後、オスロエネ(英語版)のアブガルス7世はローマに鞍替えすることを決定し、トラヤヌスによって地位を安堵された。トラヤヌスは115年から116年にかけての冬をアンティオキアで過ごし、116年春に遠征を再開した。ユーフラテス川を下って進軍し、アディアベネの主要都市を占領した後、ドゥラ・エウロポス、そして首都クテシフォンとセレウキアを占領し、更にカラケネを服属させた。こうしてティグリス川とユーフラテス川の河口部までがローマの占領下に入り、オスロエス1世は逃走した。 ここまでの過程で、パルティアによる組織的な抵抗はほとんどなされなかった。これは同時期にパルティアが分裂と内戦に直面していたためであると考えられる。メソポタミア侵攻に対し僅かでもローマ軍に抵抗したのはオスロエス1世であったが、セレウキアでのコインの発行状況から、ヴォロガセス3世とオスロエス1世との激しい争いが継続していたことは明らかであり、パコルス2世もまだ生存して権力を主張していた可能性もある。 ローマ軍に奪われた領土を奪回するためオスロエス1世の甥のシナトルケス2世が各地で反ローマ反乱を扇動し、軍を東パルティアに集めた。しかし、シナトルケス2世への援軍を率いて合流したオスロエス1世の息子パルタマスパテスはシナトルケス2世と対立し、彼を裏切ってトラヤヌスと通じた。結果としてシナトルケス2世は死亡し、パルタマスパテスはトラヤヌスによって116年にクテシフォンでパルティア王に戴冠された。 トラヤヌスが北へ戻ると、バビロニアの住民はローマ軍の守備隊に対し反乱を起こした。トラヤヌスは占領地の主要部分を属王に与えると、117年にメソポタミアから撤退し、交通上の要路であるハトラの再占領に着手した。トラヤヌスの撤退は(彼の意図としては)一時的なものであった。なぜならば彼は118年にパルティアへの攻撃を再開し「パルティア人を真に服属させる」つもりであったためである。だが、トラヤヌスは健康を損ない、117年8月に死亡した。 遠征の最中、トラヤヌスはパルティクス(Parthicus)の称号を元老院から付与され、コインでパルティアの征服を宣言している。4世紀の歴史家、エウトロピウスとフェスティス(英語版)はトラヤヌスはメソポタミア下流にローマの属州を設置しようと試みたのだと主張している。
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