トラヤヌス後のローマとの争いとは? わかりやすく解説

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トラヤヌス後のローマとの争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:41 UTC 版)

パルティア」の記事における「トラヤヌス後のローマとの争い」の解説

トラヤヌス後継者ハドリアヌス在位117年-138年)はローマパルティア国境ユーフラテス川であることを再度主張しローマ軍事資源限られていることからメソポタミアへの侵攻は行わなかった。以降ローマとの衝突除きパルティアに関する具体的な情報はほとんど残されていないパルティアではトラヤヌス退却パルタマスパテスがたちまち王位追われた。彼はハドリアヌスの下へ逃げ込みローマの手によってオスロエネの王とされた。その後パルティアではオスロエス1世ヴォロガセス3世権力闘争続いていたと見られる詳細不明だが、コイン発行状況から見て次第ヴォロガセス3世優勢となった考えられオスロエス1世コイン128年または129年のものを最後に発行されなくなったまた、同じくコイン発行状況から判断すればオスロエス1世の死からヴォロガセス3世治世が終わるまでの間(128/129年~147年頃)、イラン高原ではヴォロガセス3世とは別にミトラダテス4世(ミフルダート4世)が王として君臨していた。しかし彼の統治についてはコイン以外何一つ情報残されていないヴォロガセス3世死後ヴォロガセス4世(ワルガシュ4世在位147年頃-191年頃)が登場したヴォロガセス4世争いなくその王位継承したと見られる。彼は長期渡って王位維持することに成功し、平和と安定時代用意した。だが、ヴォロガセス4世アルメニア王を親ローマ的なソハエムス(英語版)から新たにパルティアアルサケス家から選ばれパコルス交代させ、更にローマ勢力圏内にあるエデッサを再奪取したことで、161年から166年まで続くローマパルティア戦争英語版)が始まったローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウス在位161年-180年)は共同皇帝ルキウス・ウェルス在位161年-169年)にシリア守備させ、163年にマルクス・スタティウス・プリスクス(英語版)をアルメニア侵攻させた。続いて164年にはガイウス・アウィディウス・カッシウスメソポタミア侵攻したローマ軍165年にはセレウキアクテシフォン占領して焼き払った。だが、ローマ兵たちが命に関わる疫病英語版)(恐らくは天然痘)に罹患したため、撤退余儀なくされた。この疫病間もなくローマ世界破壊的な影響及ぼしたローマ軍撤退したが、この時以降シリアにあるドゥラ・エウロポスの町はローマの支配下に入った166年にはカッシウスとマルティウス・ウェルスの指揮メディア地方への侵攻が行われ、ルキウスはこれらの業績からパルティクス・マクシムス(最大パルティア征服者、Parthicus Maximus)、及びメディクス(メディア征服者、Medicus)の称号得た175年ローマでカッシウス皇帝称しマルクス・アウレリウス・アントニウスとの間で対立生じると、パルティアヴォロガセス4世内戦気配感じ取りローマ対し戦争再開する脅したが、カッシウス反乱短期間終息したために結局戦端開かれなかった。 191年9月ヴォロガセス5世(ワルガシュ5世在位191年-208年)が王となった間もなくローマでセプティミウス・セウェルス在位193年-211年)、ディディウス・ユリアヌス在位193年)、ペスケンニウス・ニゲルらの間で内戦勃発すると、ヴォロガセス5世シリア総督だったニゲル支援しローマ東方領土切り取りかかったが、ニゲル敗北その後ローマの反撃により、アディアベネ占領された。196年セウェルスローマ帝国内での更なる戦いのために西方に去ると、ヴォロガセス5世は再び攻勢転じメソポタミアアルメニア奪回した。しかし、アディアベネでは現地の王ナルセスが親ローマ姿勢見せた上、後方ペルシア人メディア人が反乱起こしたため、これらの鎮圧全力を注がなければならなくなったヴォロガセス5世最終的にホラーサーン地方反乱軍撃破しアディアベネナルセス処刑し支配回復することに成功した197年になると、ローマ国内統合したセウェルス帝が再びパルティア領内侵攻したトラヤヌスの時と同じくローマ軍ユーフラテス川下りセレウキアクテシフォン占領した彼もまたパルティクス・マクシムス(Parthicus Maximus)という称号得たが、198年後半撤退し、かつてのトラヤヌスのようにハトラ包囲した失敗したセウェルス帝のローマ軍撤退した後、パルティアについての情報極端に少なくなるヴォロガセス5世208年死亡した後、ヴォロガセス6世(ワルガシュ6世)とアルタバノス4世(アルタバーン4世)の間で王位を巡る争い発生したアルタバノス4世王国東部大部分を、ヴォロガセス6世メソポタミアからバビロニアに至る地方支配していた。ローマ皇帝カラカラ在位211年-217年)はこれに乗じて213年頃、オスロエネの王を廃して支配下に置き、アルメニアにも侵攻した内戦を争う二人パルティア王はこのローマ動き対抗することはなかった。アルタバノス4世216年までにメソポタミア地方にまで勢力伸ばしたが、ヴォロガセス6世はなおセレウキアクテシフォン周辺支配維持したカラカラアルタバノス4世の娘の一人結婚要求した。だが、この結婚承認されなかったためパルティア開戦しティグリス川東のアルベラ占領してメソポタミア征服した217年カラカラ暗殺されると、跡を継いだマクリヌス在位217年-218年)は戦争責任カラカラにあるとして、アルタバノス4世講和申し入れたが、アルタバノス4世はこれを拒絶しメソポタミア返還破壊され都市要塞陵墓再建要求した最終的にアルタバノス4世ローマ軍打ち破りマクリヌス敗走させることに成功したアルタバノス4世マクリヌスから2億セスティルティウス相当の贈り物受け取って和平結んだ

※この「トラヤヌス後のローマとの争い」の解説は、「パルティア」の解説の一部です。
「トラヤヌス後のローマとの争い」を含む「パルティア」の記事については、「パルティア」の概要を参照ください。

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