トラヤヌス後のローマとの争い
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「パルティア」の記事における「トラヤヌス後のローマとの争い」の解説
トラヤヌスの後継者ハドリアヌス(在位:117年-138年)はローマとパルティアの国境がユーフラテス川であることを再度主張し、ローマの軍事資源が限られていることからメソポタミアへの侵攻は行わなかった。以降、ローマとの衝突を除き、パルティア史に関する具体的な情報はほとんど残されていない。 パルティアではトラヤヌスの退却後パルタマスパテスがたちまち王位を追われた。彼はハドリアヌスの下へ逃げ込み、ローマの手によってオスロエネの王とされた。その後のパルティアではオスロエス1世とヴォロガセス3世の権力闘争が続いていたと見られる。詳細は不明だが、コインの発行状況から見て次第にヴォロガセス3世が優勢となったと考えられ、オスロエス1世のコインは128年または129年のものを最後に発行されなくなった。また、同じくコインの発行状況から判断すれば、オスロエス1世の死からヴォロガセス3世の治世が終わるまでの間(128/129年~147年頃)、イラン高原ではヴォロガセス3世とは別にミトラダテス4世(ミフルダート4世)が王として君臨していた。しかし彼の統治についてはコイン以外何一つ情報が残されていない。 ヴォロガセス3世の死後、ヴォロガセス4世(ワルガシュ4世、在位:147年頃-191年頃)が登場した。ヴォロガセス4世は争いなくその王位を継承したと見られる。彼は長期に渡って王位を維持することに成功し、平和と安定の時代を用意した。だが、ヴォロガセス4世がアルメニア王を親ローマ的なソハエムス(英語版)から新たにパルティアのアルサケス家から選ばれたパコルスに交代させ、更にローマの勢力圏内にあるエデッサを再奪取したことで、161年から166年まで続くローマとパルティアの戦争(英語版)が始まった。ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウス(在位:161年-180年)は共同皇帝のルキウス・ウェルス(在位:161年-169年)にシリアを守備させ、163年にマルクス・スタティウス・プリスクス(英語版)をアルメニアに侵攻させた。続いて164年にはガイウス・アウィディウス・カッシウスがメソポタミアに侵攻した。 ローマ軍は165年にはセレウキアとクテシフォンを占領して焼き払った。だが、ローマ兵たちが命に関わる疫病(英語版)(恐らくは天然痘)に罹患したため、撤退を余儀なくされた。この疫病は間もなくローマ世界に破壊的な影響を及ぼした。ローマ軍は撤退したが、この時以降シリアにあるドゥラ・エウロポスの町はローマの支配下に入った。166年にはカッシウスとマルティウス・ウェルスの指揮でメディア地方への侵攻が行われ、ルキウスはこれらの業績からパルティクス・マクシムス(最大のパルティア征服者、Parthicus Maximus)、及びメディクス(メディア征服者、Medicus)の称号を得た。175年にローマでカッシウスが皇帝を称し、マルクス・アウレリウス・アントニウスとの間で対立が生じると、パルティア王ヴォロガセス4世は内戦の気配を感じ取りローマに対し戦争を再開すると脅したが、カッシウスの反乱が短期間で終息したために結局戦端は開かれなかった。 191年9月ヴォロガセス5世(ワルガシュ5世、在位:191年-208年)が王となった。間もなくローマでセプティミウス・セウェルス(在位:193年-211年)、ディディウス・ユリアヌス(在位:193年)、ペスケンニウス・ニゲルらの間で内戦が勃発すると、ヴォロガセス5世はシリア総督だったニゲルを支援し、ローマの東方領土を切り取りにかかったが、ニゲルの敗北とその後のローマの反撃により、アディアベネが占領された。196年、セウェルスがローマ帝国内での更なる戦いのために西方に去ると、ヴォロガセス5世は再び攻勢に転じメソポタミアとアルメニアを奪回した。しかし、アディアベネでは現地の王ナルセスが親ローマ姿勢を見せた上、後方でペルシア人とメディア人が反乱を起こしたため、これらの鎮圧に全力を注がなければならなくなった。ヴォロガセス5世は最終的にホラーサーン地方で反乱軍を撃破し、アディアベネ王ナルセスも処刑して支配を回復することに成功した。 197年になると、ローマ国内を統合したセウェルス帝が再びパルティア領内に侵攻した。トラヤヌスの時と同じくローマ軍はユーフラテス川を下りセレウキアとクテシフォンを占領した。彼もまたパルティクス・マクシムス(Parthicus Maximus)という称号を得たが、198年の後半に撤退し、かつてのトラヤヌスのようにハトラを包囲したが失敗した。 セウェルス帝のローマ軍が撤退した後、パルティアについての情報は極端に少なくなる。ヴォロガセス5世が208年に死亡した後、ヴォロガセス6世(ワルガシュ6世)とアルタバノス4世(アルタバーン4世)の間で王位を巡る争いが発生した。アルタバノス4世は王国の東部の大部分を、ヴォロガセス6世はメソポタミアからバビロニアに至る地方を支配していた。ローマ皇帝カラカラ(在位:211年-217年)はこれに乗じて213年頃、オスロエネの王を廃して支配下に置き、アルメニアにも侵攻した。内戦を争う二人のパルティア王はこのローマの動きに対抗することはなかった。アルタバノス4世は216年までにメソポタミア地方にまで勢力を伸ばしたが、ヴォロガセス6世はなおセレウキアとクテシフォン周辺の支配を維持した。 カラカラはアルタバノス4世の娘の一人と結婚を要求した。だが、この結婚が承認されなかったためパルティアと開戦し、ティグリス川東のアルベラを占領してメソポタミア征服した。217年にカラカラが暗殺されると、跡を継いだマクリヌス(在位:217年-218年)は戦争の責任はカラカラにあるとして、アルタバノス4世に講和を申し入れたが、アルタバノス4世はこれを拒絶し、メソポタミアの返還と破壊された都市と要塞・陵墓の再建を要求した。最終的にアルタバノス4世はローマ軍を打ち破り、マクリヌスを敗走させることに成功した。アルタバノス4世はマクリヌスから2億セスティルティウス相当の贈り物を受け取って和平を結んだ。
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