トラヤヌスの時代のローマ建築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 20:17 UTC 版)
「ローマ建築」の記事における「トラヤヌスの時代のローマ建築」の解説
トラヤヌス帝の建築を考察する際には、建築家ダマスカスのアポロドーロスの名を挙げなければならない。彼がどのような指向を持った人物だったかについては議論があるが、ローマン・コンクリート技術を巧みに操ることのできた技術者で、都市計画についても知識を発揮できた人物であることは確かである。 ローマの公共浴場はカンパーニアで始まったと考えられているが、いわゆる皇帝浴場とよばれるタイプの建築はトラヤヌス浴場で完成された。この浴場はエスクイリヌスの丘に建設され、ネロのドムス・アウレアの居住用翼屋の跡に建設されている。すぐ側には、ウェスパシアヌス帝が起工し、ティトゥス帝によって完成されたティトゥス浴場があり、システムとしてはトラヤヌス浴場とほとんど同じであったと考えられている。ただし、トラヤヌス浴場はもっと大規模で、施設の中心に冷浴室(フリギダリウム)、温浴室(カルダリウム)、プール(ナタティオ)が配置され、これを両側から運動場(パライストラ)が挟み込む形式となっていた。南側は窓ガラスが嵌められた開口部がふんだんに開けられ、内部はたいへん明るかったと思われる。機能的には、それぞれ個別の施設であった浴場とギムナシウムが完全に融合しており、中庭の外周には講義室、ギャラリー、図書館、店舗が組み込まれた。カラカラ浴場、ディオクレティアヌス浴場など、以後の皇帝浴場はほとんど同じ形式の建物で、この浴場の影響がどれほど大きかったかが分かる。 トラヤヌスのフォルムは、北方属州から導入されたバシリカ・フォルム・神殿複合体と呼ばれる形式で建設されたもので、ローマに建設された皇帝によるフォルムとしては、最後にして最大の作品である。フォルムの西辺にはバシリカ・ウルピアが建設され、そのさらに西側に小さな中庭を挟んでトラヤヌスの神殿があった。中庭には、帝政初期の古典的な技法ではない、個性的な浮き彫り彫刻が施されたトラヤヌスの記念柱が聳えるが、フォルム全体の性格はアウグストゥスのフォルムに則ったもので、バシリカ・ウルピアについても、造形は決定的に保守的であった。しかし、それでもバシリカ・ウルピアはローマ帝国最美の建築とされ、たいへん賞賛され、属州で広く模倣された。 トラヤヌスの市場は、クイリナリスの丘とカピトリヌスの丘を結ぶ線上に計画されたトラヤヌスのフォルムの一部を成しており、斜面の等高線に沿った3方向からのアクセスが考えられていた。下部はフォルムからバシリカを経て到達するもので、2層からなる半円形平面を形成する。その上部の道は今日もヴィア・ベラティカと呼ばれる街路として残っており、3階建ての店舗と集合住宅に囲まれていた。東側はそこからさらに上の道に通じていた。トラヤヌスの市場は実用的な商業建築であったので、大理石などの高価な素材による装飾は認められず、建物の装いは煉瓦だけで構成される。プランニングについても、共和制時代の鈍重さから抜け出した自由なもので、アーチを用いた戸口のリズミカルなパターンとカーブしたファサードはローマ建築のあたらしい構成要素のひとつとなった。
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