メソポタミア・シリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 03:41 UTC 版)
「パリ講和会議」の記事における「メソポタミア・シリア」の解説
大戦初期、イギリス本国政府はオスマン帝国支配下の中東に対して深い関心を持っていなかったが、ペルシャ湾の要衝であるバスラの掌握を希望していた。またメソポタミア戦線(英語版)において主導的な役割を果たしたインド帝国政府は、メソポタミアは当然の報酬としてインド帝国に与えられるべきと主張していた。 しかし中東戦線の重要性が増大すると、イギリス政府もオスマン帝国解体へと踏み切った。この動きの中でハーシム家のヒジャーズ王国などの現地勢力との取引(フサイン=マクマホン協定など)を行う一方で、サイクス・ピコ協定によるロシア・フランスとの勢力範囲劃定も行った。しかし大戦末期にはフランスの勢力範囲となっていたモスルにイギリスが侵攻し、中東問題はいよいよ混沌化していった。 「十四か条の平和原則」により、オスマン帝国支配下諸民族の安全保障が唱えられ、戦時中の中東戦線(シナイ半島・パレスチナ戦線(英語版)、コーカサス戦線(英語版)、ペルシャ戦線(英語版)、メソポタミア戦線(英語版))で連合国はアルメニアやハーシム家等に独立の保障を行っていた。しかし講和会議ではこれらの地域の大半は委任統治が決まった。 1919年1月30日にウィルソンは「ヨーロッパ外に存在するドイツおよびトルコ領の取り扱いについて満足のいく暫定協定に達した」と発表し、2月3日にはイギリス政府も委任統治を承認した。 次の問題は委任統治受任国であったが、フランスはイギリスがシリアも支配するのではないかと懸念していた。当時シリアはフランスの勢力範囲であったが、フサイン=マクマホン協定によればシリアはイギリスの支持下にあるファイサルの統治範囲であり、フランスはシリア現地民の支持も得られていなかった。フランスはウィルソンが提案したシリアの実態調査をも拒否した。 一方ファイサルは委任統治による中東支配に傾いたイギリスに不信感を抱いたが、後ろ盾がイギリスしかない状態の講和会議ではほとんど実績を上げられなかった。9月、イギリスはパレスチナを除くシリアから撤退し、シリア問題をファイサルとフランスの直接交渉にゆだねた。1920年4月のサンレーモ会議(英語版)によってシリアはフランスの、イラクとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。サンレーモの決定に反対したイラクでは大規模な反乱が起き(イラクの反英蜂起(英語版))、イギリスに衝撃を与えた。チャーチルをはじめとする政府の一部はファイサルを通じた間接統治を選択するようになり、1921年のカイロ会議 (1921年)、イラク王国の成立へとつながった。
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