言語と文字
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南越国では中原より移住した数十万の漢人が古漢語を用いた以外、南越、西甌、駱越等の住民の大部分は古越語を話したと考えられている。現在中国東部及び東南アジアに分布するタイ・カダイ語族は古越語の後裔と考えられており、現在の広東語の祖形を用いていたと推測されている。また文字に関しては中原からの移民がもたらした漢字を使用していた。南越王墓と広西羅泊湾1号墓からは隷書を刻印した印章や銅器、銀器や陶器などが出土している。
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言語と文字
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ナバテア人の言語についてであるが、マカバイ記1および2、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』ではナバテア王国を「アラビアの王」と呼んでおり、発掘されたナバテア文字碑文の人名研究からアラビア語の特徴が顕著であるため、アラビア語の一派であったろうと考えられている(タバリーなどのアッバース朝時代以降のイスラーム圏の歴史家たちもナバテア人をアラブ人の一派であると認識していた)。彼らは帝国アラム文字の後身のひとつであるナバテア文字を使用していた。紀元前3世紀頃から紀元後5世紀頃まで、シリア北部からアラビア半島南部のイエメンまでの広い地域に多数のナバテア文字碑文群が確認されているが、これらはナバテア人の活動範囲の広がりに重なるものと考えられ、碑文群は殆どの場合、アラム語によって書かれている。 紀元前後からアラビア半島からメソポタミア、シリア全域にアラブ系の諸部族が交易や定住などで多数進出していたことが知られている。これらのアラブ系の諸勢力はもともと完全に独自の文字をもたなかったが、話し言葉は当然ながらアラビア語系であったものの、多くの場合、書き言葉としてアラム文字とアラム語を借用していたようである。ナバテア人もまた同じくアラム文字を独自の書体に変化させたナバテア文字を用い、アラム語で碑文などを書いていた。今日のアラビア文字の元となったのは、4世紀から5世紀頃にアラビア半島西岸のヒジャーズ地方を中心に用いられていたナバテア文字の一種から派生したと考えられる。特に5世紀以降からナバテア文字や最初期のアラビア文字によってアラム語ではなくアラビア語で書かれた碑文が見られるようになる。1952年にサウジアラビアのタブーク州で、イギリスのジョン・フィルビーがサムード語、ナバテア語の新碑文2500個を集めている。 その他ペトラ周辺では南アラビア文字と呼ばれる文字が多数発見されているが、どのような経緯でナバテア人に伝わったのかははっきりしていない。
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言語と文字
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 06:20 UTC 版)
写本に書かれている言語は不明である。候補として挙げられたものとしては、ハンガリー語やダキア語、初期ルーマニア語かクマン語があり、中にはブラフミー文字で書かれたヒンディー語であるという説まである。ただし、何の言語であるかといった証拠は全く見つかっていない。 この写本が間違いなくハンガリー語で書かれていると主張する人々は、写本中に書かれた記号が古代ハンガリー文字であるとみなし、ハンガリー版のルーン文字であるロヴァーシュ文字との類似性を見つけようとしている。その他の主張によると、ルーマニア・ドブロジャ地方にあるスキタイの修行洞に似たような文字が彫られているという。また、ギリシャ語で書かれたヴェスプレームヴェルジ女子修道院の設立勅許状との類似性を見出そうとする人々もいた。さらには、上記にもある通り、ブラフミー文字との関連性を主張する声もある。 写本中に書かれた記号の一覧を作成する試みは1889年、まずネーメティ・カールマーン(Némethi Kálmán)によってなされた。また、1970年にジュルク・オットー(Gyürk Ottó)が記号に関する最初の組織的研究を行った。ジュルクは記号列の反復を研究し、文章がどちらの方向から書かれているかを探ろうとした。その結果ジュルクは、記号列が「右から左かつ上から下へ」と書かれており、ページもまた「右から左」に向かって進んでいると主張している。また同時に写本のページ番号を識別した。晩年のジュルクによると、膨大な統計情報に基づく未発表の推論がまだ数多くあるのだという。 ロチュマーンディ・ミクローシュ(Locsmándi Miklós)は1990年代中盤、コンピュータを用いて記号列の解析を行った。ロチュマーンディはジュルクによる研究結果を確証し、他にも幾つかの発見をした。ロチュマーンディによると、アルファベットの「i」のように見える記号(右図参照)は、文章同士を区切る役割をしているという。また「i」は11を意味する記号か、あるいは数値の桁区切りにも使われている可能性があるという。ロチュマーンディは記号に付けられた発音区別符号のようなもの(主にドット符号)の研究も行ったが、規則性は見られなかった。そして写本の記号列内にハンガリー語の特徴である格語尾の形跡が見つけられなかったため、写本中に書かれている言語がハンガリー語である可能性はないだろうと結論付けた。 結果としてロチュマーンディは、2004年から2005年にかけての研究において「写本が捏造ではない」との確証を得るには至らなかった。ただし、記号列の規則性を鑑みて、「写本は全くデタラメな文章である」という説については否定した。
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言語と文字
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 14:17 UTC 版)
1446年に「訓民正音」の名でハングルが作られるまで、朝鮮語を表すための独自の文字はなかった。その後も漢文が正式の文字とされ、ハングルは下等なものと見なされていた。日本統治時代になって、学校でハングルが教えられるようになり、ハングルの正書法が定められ、朝鮮語の辞書も作られるようになった。 日本統治時代に、近代的な事物、制度、概念などを表す漢字語が日本語から朝鮮語に大量に入ったため、政治、経済、法律、諸学問、科学技術、等の用語の大部分は、発音は朝鮮漢字音でされるが、漢字で書けば日本語と全く同じである。 民族主義のため、朝鮮民主主義人民共和国では1948年に漢字使用が全廃され、大韓民国でも1948年にハングル専用法を制定した。また、外来語、特に日本語由来の単語を、朝鮮固有語に置き換えようとする国語醇化運動も行われている。 「漢字語 (朝鮮語)」および「ハングル専用文と漢字ハングル混じり文」も参照
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