第1期公安委員会(ダントン委員会)
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「公安委員会 (フランス革命)」の記事における「第1期公安委員会(ダントン委員会)」の解説
第1期とされるのは1793年4月7日から7月10日までの期間で、公安委員は定数9名で構成された。委員の顔ぶれは得票数順で以下の通りである。半分は国防委員の再選となったが、全員が国王裁判では死刑投票をした議員で、ジロンド派はいないが、7名(デブリ辞退後は6名)は平原派、山岳派右派が2名(同3名)という中道右派的な人選となった。実際的にはダントンが指導する事実上の彼の責任内閣であったためダントン委員会という別名でも呼ばれる。 360票 ベルトラン・バレール・ド・ヴューザック 347票 ジャック=フランソワ=ベルトラン・デルマ 325票 ジャン=ジャック・ブレアール (fr:Jean-Jacques Bréard-Duplessis) 276票 ピエール・ジョゼフ・カンボン 233票 ジョルジュ・ダントン 227票 ジャン・デ・ブリ(デブリ) → 健康上の理由で辞退 → ジャン=バプティスト・ロベール・ランデ (Jean-Baptiste Robert Lindet) 202票 ルイ=ベルナール・ギュイトン=モルヴォー(またはギュイトン・ド・モルヴォー) 167票 ジャン=バプティスト・トレヤール (fr:Jean-Baptiste Treilhard) 151票 ジャン=フランソワ・ドラクロワ (fr:Jean-François Delacroix) 公安委員会は、前述のように非公開とされ、緊急時には立法権の一部を持つが、逮捕権などはまだ持たなかった。最初の会合で、会議は朝晩の二回(午前9時と午後7時)開かれ、事務局は三部で構成されるとされた。またこのときに1ヶ月毎に委員会を改選することも決められたが、特に問題なければ再選または改選の延期が決議されていたために実際には具体的な任期はなかった。権力が一人に集中することを避けるために委員会には議長が置かれない代わりに、各委員の職務領域が割り当てられた。財政がカンボン、食糧や通信連絡がランデ、内務などがギュイトン、デルマとドラクロワは陸軍、トレヤールとプレアールが海軍、バレールとダントンは派遣議員の人選と監察である。各大臣の役割は低下してより行政官僚に近くなった。公安委員は担当分野の大臣を従属させ、臨時行政会議を支配し、内外の政務の処理にあたった。しかし公安委員会はまだ諸委員会を統制する優越した組織ではなく、対等に位置づけられていた。 こうして誕生したダントン委員会であったが、なかなか成果を上げられなかった。ダントン本人がデュムーリエとの交友関係から嫌疑をかけられたほか、バレールとともに進めた和平交渉も暗礁に乗り上げ、食糧・財政問題も適切な対応ができず、ジロンド派との和解も決裂した。国民公会で多数派であったジロンド派は、5月18日、十二人委員会 (fr:Commission extraordinaire des Douze) を立ち上げて公安委員会と保安委員会の上位に位置する治安の最高機関とし、反ジロンダンの全ての陰謀を鎮圧しようと攻勢を強めたため、新たな収賄疑惑まで持ち上がって窮していたダントンは、意に反して左派に協力しなければならなかった。1793年5月31日〜6月2日のジロンド派の追放にしぶしぶながら手を貸したダントンだが、事件後はジロンド派に再び妥協的態度をとって緩慢にも議員の逃亡を許し、やはり左派からは激しく非難された。 詳細は「十二人委員会」を参照 国民公会で山岳派の支配が始まると、必要な権力の樹立を目指して公安委員会の改組が図られることになった。まず先立つ5月30日、新しい憲法(ジャコバン憲法)の起草のためと称してエロー・ド・セシェル (Marie-Jean Hérault de Séchelles) 、クートン、サン=ジュスト、マテュー (fr:Jean-Baptiste-Charles Matthieu-Mirampal) 、ラメル (fr:Dominique-Vincent Ramel-Nogaret) の5名を新たに加えて、一時的に14人体制とされた。6月5日、プレアールに代えてベルリエ (fr:Théophile Berlier) が、さらに6月12日にはトレヤールとランデに代えてガスパラン (fr:Thomas-Augustin de Gasparin) とサン=タンドレが公安委員に加わった。翌日の会合で割り当ても変更され、カンボン、ベルリエ、サン=ジュスト、クートンが一般連絡、バレール、ダントン、エロー・ド・セシェルが外交、ガスパラン、ドラクロワ、デルマが陸軍、ギュイトン、サン=タンドレが海軍、ラメル、マテューが税務・内務・司法となった。 しかしこの第二次ダントン委員会も難局を打開できなかったどころか、山岳派内部の左右両派の不和に加え、前述のようにダントンの信用が著しく低下したことから、政権は死に体に近い状態になった。そうこうしている間にも戦局はますます悪化し、国内では親ジロンド派とされる西部または南部の地方県で連邦主義者(フェデラリスト)の反乱が新たに起こって、革命フランスは最大の危機に陥った。またパリなどでは食糧不足と物価高が深刻化しており、投機や買い占めの禁止を主張する極左派の突き上げに対しても、ダントン派(寛容派)は経済統制を決して容認せず、各方面の不満が公安委員会に集中した。マラーなどは委員会は、「公共の安全委員会ならぬ、公共の滅亡委員会である」と公言して憚らなかった。この期に及んでは、国民公会も支持を失った公安委員会の全面的な改選を決意するに至り、ついにダントンは失脚したのであった。彼は自ら公安委員会を離れたいと伝えた。
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