第1期公安委員会とは? わかりやすく解説

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第1期公安委員会(ダントン委員会)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 03:30 UTC 版)

公安委員会 (フランス革命)」の記事における「第1期公安委員会(ダントン委員会)」の解説

第1期とされるのは1793年4月7日から7月10日までの期間で、公安委員定数9名で構成された。委員顔ぶれ得票数順で以下の通りである。半分国防委員再選となったが、全員国王裁判では死刑投票をした議員で、ジロンド派はいないが、7名(デブリ辞退後は6名)は平原派山岳派右派が2名(同3名)という中道右派的な人選となった実際的にダントン指導する事実上彼の責任内閣であったためダントン委員会という別名でも呼ばれる360票 ベルトラン・バレール・ド・ヴューザック 347ジャックフランソワ=ベルトラン・デルマ 325ジャン=ジャック・ブレアール (fr:Jean-Jacques Bréard-Duplessis) 276ピエール・ジョゼフ・カンボン 233ジョルジュ・ダントン 227票 ジャン・デ・ブリ(デブリ) → 健康上の理由辞退ジャン=バプティスト・ロベール・ランデ (Jean-Baptiste Robert Lindet) 202ルイ=ベルナール・ギュイトン=モルヴォー(またはギュイトン・ド・モルヴォー) 167ジャン=バプティスト・トレヤール (fr:Jean-Baptiste Treilhard) 151ジャン=フランソワ・ドラクロワ (fr:Jean-François Delacroix) 公安委員会は、前述のように非公開とされ、緊急時には立法権一部を持つが、逮捕などはまだ持たなかった。最初会合で、会議朝晩の二回(午前9時と午後7時開かれ事務局三部構成されるとされた。またこのときに1ヶ月毎に委員会改選することも決められたが、特に問題なければ再選または改選延期決議されていたために実際に具体的な任期はなかった。権力一人集中することを避けるために委員会には議長置かれない代わりに、各委員職務領域割り当てられた。財政カンボン食糧通信連絡ランデ内務などがギュイトン、デルマドラクロワ陸軍、トレヤールとプレアールが海軍、バレールとダントン派遣議員人選監察である。各大臣役割低下してより行政官僚に近くなった。公安委員担当分野大臣従属させ、臨時行政会議支配し内外政務の処理にあたった。しかし公安委員会はまだ諸委員会統制する優越した組織ではなく対等に位置づけられていた。 こうして誕生したダントン委員会であったが、なかなか成果上げられなかった。ダントン本人がデュムーリエとの交友関係から嫌疑かけられたほか、バレールとともに進めた和平交渉暗礁に乗り上げ食糧財政問題適切な対応ができず、ジロンド派との和解決裂した国民公会多数派であったジロンド派は、5月18日十二人委員会 (fr:Commission extraordinaire des Douze) を立ち上げて公安委員会保安委員会の上位に位置する治安最高機関とし、反ジロンダンの全ての陰謀鎮圧しよう攻勢強めたため、新たな収賄疑惑まで持ち上がって窮していたダントンは、意に反して左派協力しなければならなかった。1793年5月31日6月2日ジロンド派追放しぶしぶながら手を貸したダントンだが、事件後はジロンド派に再び妥協的態度をとって緩慢に議員逃亡許し、やはり左派からは激しく非難された。 詳細は「十二人委員会」を参照 国民公会山岳派支配が始まると、必要な権力樹立目指し公安委員会改組図られることになった。まず先立つ5月30日新し憲法ジャコバン憲法)の起草のためと称してエロー・ド・セシェル (Marie-Jean Hérault de Séchelles) 、クートンサン=ジュストマテュー (fr:Jean-Baptiste-Charles Matthieu-Mirampal) 、ラメル (fr:Dominique-Vincent Ramel-Nogaret) の5名を新たに加えて一時的に14人体制とされた。6月5日、プレアールに代えてベルリエ (fr:Théophile Berlier) が、さらに6月12日にはトレヤールとランデ代えてガスパラン (fr:Thomas-Augustin de Gasparin) とサン=タンドレが公安委員加わった翌日会合割り当て変更されカンボン、ベルリエ、サン=ジュストクートン一般連絡、バレール、ダントン、エロー・ド・セシェルが外交、ガスパラン、ドラクロワデルマ陸軍、ギュイトン、サン=タンドレが海軍、ラメル、マテュー税務内務司法となった。 しかしこの第二次ダントン委員会難局打開できなかったどころか、山岳派内部左右両派の不和加え前述のようにダントン信用著しく低下したことから、政権死に体に近い状態になったそうこうしている間にも戦局はますます悪化し国内では親ジロンド派とされる西部または南部地方県で連邦主義者フェデラリスト)の反乱新たに起こって革命フランス最大危機陥った。またパリなどでは食糧不足物価高深刻化しており、投機買い占め禁止主張する極左派の突き上げに対しても、ダントン派(寛容派)は経済統制決し容認せず、各方面の不満が公安委員会集中したマラーなどは委員会は、「公共の安全委員会ならぬ、公共滅亡委員会である」と公言して憚らなかった。この期に及んでは、国民公会支持失った公安委員会全面的な改選決意する至り、ついにダントン失脚したであった。彼は自ら公安委員会離れたい伝えた

※この「第1期公安委員会(ダントン委員会)」の解説は、「公安委員会 (フランス革命)」の解説の一部です。
「第1期公安委員会(ダントン委員会)」を含む「公安委員会 (フランス革命)」の記事については、「公安委員会 (フランス革命)」の概要を参照ください。

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