宜昌作戦
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宜昌作戦(ぎしょうさくせん)は、日中戦争中の1940年(昭和15年)5月から6月まで湖北省で行われた日本軍の作戦である。日本軍の第11軍が、中国軍第5戦区軍の撃破と宜昌の攻略を目的として実行した。中国側の呼称は棗宜会戦。
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- ^ a b 「[1]」
- ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110494300、昭和16年1月に於ける支那総軍統計(附図7枚入り) 昭和16年1月(防衛省防衛研究所)」
- ^ 『支那事変陸軍作戦(3)昭和十六年十二月まで』 154-157頁。
- ^ 『支那事変陸軍作戦(3)昭和十六年十二月まで』 188-198頁。
- ^ 漢水の別名を「襄河(じょうが)」といい、その東岸地域を「襄東」、西岸地域を「襄西」と呼んだ
- ^ そのころの中国軍の士気は極めて旺盛で、傍受した中国軍の通信は「勝った。勝った」の声ばかりであったという。
- ^ 張自忠は自ら直属特務大隊と2個中隊の少数を率いて陽動作戦をとっていたとされる。菊池、94頁。
- ^ 張の戦死の状況は諸説あるが、日本側の記録によれば堂野軍曹の銃撃を頭部に受け、藤岡卓郎一等兵の刺突によって絶命したとされる。
- ^ 専田盛寿(当時少佐)は、第29軍第38師長兼天津市長だった張と親交があり、2人は盧溝橋事件の際にも和平交渉に当たっていた。
- ^ 『支那事変陸軍作戦(3)昭和十六年十二月まで』 199頁。
- ^ 森金、61-72頁。
- ^ 森金、72-78頁。
- ^ 『支那事変陸軍作戦(3)昭和十六年十二月まで』 199-201頁。
- ^ 『支那事変陸軍作戦(3)昭和十六年十二月まで』 201-202頁。
- ^ 『支那事変陸軍作戦(3)昭和十六年十二月まで』 202-206頁。
- ^ 『支那事変陸軍作戦(3)昭和十六年十二月まで』 207-214頁。
- ^ 『支那事変陸軍作戦(3)昭和十六年十二月まで』 214-215頁。
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