宜昌再占領問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 08:52 UTC 版)
支那派遣軍総司令部では一部で「宜昌確保」の意見が現れていたが、中央部の進める兵力削減問題から第11軍に対して兵力を新たな兵力を増強させることはできず、6月17日、日本軍は計画通り宜昌からの反転帰還することになった。 そのころ、東京の参謀本部ではヨーロッパ戦線における激動が大きく影響を与え(6月11日のイタリア参戦、12日のパリ陥落など)、南進論の沸騰や、事変の早期解決の積極論が高調していた。そして、重慶政府に与える影響の大きさから宜昌保持の要望も急速に広まっていたのである。6月15日、軍令部総長が上奏の際に、重慶爆撃の中継地として宜昌が大きな価値を持つことを言及すると「陸軍は宜昌はなんとかならないのか」との御下問があった。ここで参謀本部の態度は宜昌確保に一致決定され、翌日確保命令が出された。 命令は即座に宜昌から反転帰還中の前線部隊へ伝達された。前夜から反転を始めていた第3、第13師団は、命令を撤回して宜昌の再占領に向かった。一方、中国軍は宜昌から反転していく日本軍をみて、陳誠指揮の下に一斉に宜昌へ進出しつつあり、そこへ再び反転してきた日本軍との間で激戦が展開された。6月24日になってようやく日本軍は市街の掃討を完了させた。
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