宜昌攻防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 10:17 UTC 版)
第11軍が長沙から反転に移ろうとするころ、警備の手薄になった宜昌には同地の奪回をめざして第6戦区軍(陳誠長官)の約15個師が押し寄せていた。蔣介石軍事委員長は10月2日、陳誠長官に対して「いかなる犠牲をも顧みることなく三日以内に宜昌を奪回」することを厳命していた。中国軍の攻撃は9月28日から始まった。各地区の警備隊は予想以上の大軍のため次々に包囲孤立させられ、中国軍の主力部隊はその間隙を通過し宜昌をめざして進撃した。来攻した中国軍は中央直系の精鋭約15個師に加え、重・軽砲約140門を動員していると見られた。この地区を警備する第13師団(師団長:内山英太郎中将)は早淵支隊に師団戦力の3分の1を割いていたが、長沙作戦へ悪影響を与えないようにとの配慮から中国軍反攻の模様を第11軍司令部に通報していなかった。 10月2日、中国軍の宜昌への直接進攻の気配が高まるころ、内山師団長は宜昌東側の東山寺台地に、前年の宜昌作戦で中国軍が使っていた塹壕の跡を発見した。すでに陣地を新設している暇はなく、配置できる歩兵部隊は残されていなかったので、師団長はここに戦闘経験のほとんど無い後方要員(衛生隊・輜重兵・入院患者・経理部勤務班など)388名を配置して陣地を補強した。砲兵出身の内山師団長は、台地の両端に側防専任の山砲(九四式山砲)3門を巧妙に配置した(北側1、南側2)。 10月6日未明、ついに中国軍の第一波が東山寺陣地に殺到し攻撃が始まった。重火器・迫撃砲に支援された中国兵は手榴弾を投じながら陣地に進入し、稜線を超えて西進する勢いを見せた。南側側防砲兵は直ちに陣地内に砲撃し、北側の山砲も零距離射撃で突撃を破砕した。混戦の数時間後中国軍は後退したが、この日以来、中国軍の5個師は毎晩入れ代わり立ち代わり波状攻撃を繰り返した。 10月7日、漢口で内山師団長からの親書を受け取った第3飛行団長遠藤三郎少将は、翌日、軽爆撃機に乗り込んで砲撃に晒されている宜昌飛行場に着陸した。内山師団長から兵士の空輸を懇願された遠藤少将は、荊門飛行場へ折り返し、歩兵小隊と機関銃分隊(45名)のピストン空輸を行うことにした。兵士らは九七式輸送機(乗員8~10名)で空輸されたが、3回目の着陸の際に敵砲弾の中を強行着陸したため、輸送機が被弾して空輸は中断された。また第3飛行団は全力を挙げて宜昌周辺の敵を攻撃した。一方、第13師団の苦戦を知った軍司令部は、第39師団と早淵支隊を救援に向かわせた。 10月10日午前2時30分、中国軍は双十節を期しての総攻撃を東山寺正面に加えてきた。中国兵の必死の突撃に陣地の一角が一時危機に瀕したが、守備兵の逆襲と側防山砲でかろうじて撃退した。第13師団司令部では、万一の自体に備え第一線の連隊から下げられていた軍旗の奉焼、秘密書類の焼却、師団長以下幹部の自決場所の設営などの準備を整え、軍司令官宛の訣別の電報が用意されていた。 10月11日、第39師団が到着し翌日から両師団は攻撃に転じたが、中国軍は10日夜と11日夜の雨天、暗雲を利用して全軍をすでに後退させていた。中国軍の退却を察知した第3飛行団は全力で猛攻撃を加え15キロ爆弾128個、50キロ爆弾270個を投下した。その後、日本軍は10月26日まで江北方面各地に進攻した中国軍の掃討を続けた。
※この「宜昌攻防戦」の解説は、「第一次長沙作戦」の解説の一部です。
「宜昌攻防戦」を含む「第一次長沙作戦」の記事については、「第一次長沙作戦」の概要を参照ください。
- 宜昌攻防戦のページへのリンク