白河渡河戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 08:52 UTC 版)
第11軍は中国軍を棗陽方面の平野に誘い出して殲滅することに決した。5月15日、第3師団は戦線から離脱して中国軍を誘致しつつ、16日棗陽付近に集結した。第11軍の各兵団は棗陽を中心に迎撃体制を整えたが、この誘いに乗った中国軍14~15個師が棗陽付近に迫ってきた。5月19日、日本軍は一斉に攻撃を開始、狼狽した中国軍は再び北西方に潰走した。追撃に移った日本軍は白河・唐河河畔で大きな戦果を挙げ、一部の部隊は老河口(第5戦区長官部の所在地)近くまで進出した。 このとき、第39師団の歩兵第233連隊(長:神崎哲次郎大佐)は中国軍を追撃して白河河畔に進出した。5月20日薄暮ごろ、連隊は渡河点を偵察するために3人の将校を派遣した。夕暮れ時で川面には霞がかかっており、前方に見える砂地を2人は対岸だと判断したが、1人は中洲と判断した。報告では前者2人のものが採用された。20日夜から渡河が開始され、21日0時ごろ対岸と思われた「中洲」に上陸した。渡河成功の青信号弾が打ち上げられるや、対岸から標定していた中国軍は一斉に猛射を開始した。遮蔽物の無い中洲へ次々に上陸した連隊はたちまち損害続出、3百数十人の犠牲者を出し神崎連隊長も戦死した。この「白河の渡河戦」は第39師団最大の悲劇と称された。 5月21日、兵站線が延びきった日本軍は追撃を打ち切り、反転を命じて漢水渡河の準備に移行し始めた。第5戦区軍15個師を撃破したとはいえ、炎天下の行軍で日本軍の疲労は極度に達していた。ここまでの戦果は遺棄死体約33,000、捕虜約1,000名、日本軍の損害は戦死850名、戦傷約3,000名であった(5月31日まで)。
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