白河結城氏と南北朝の争乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 00:07 UTC 版)
鎌倉時代末期、結城朝広の子の一人である祐広は白河を本拠として白河結城氏(白河氏、または白川氏)となる。元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の皇子・護良親王による鎌倉幕府討伐の令旨が届けられると、祐広の子・宗広は鎌倉幕府に対して挙兵し、続いて後醍醐天皇の綸旨を受けて新田義貞の鎌倉攻めに参加し、鎌倉幕府滅亡後の建武の新政においては、宗広は前述のように結城氏惣領の地位と奥州各郡の検断職の地位を与えられ、宗広の子・親光が三木一草と称される1人となった。また、親光の兄・親朝は奥州府の一員となり陸奥守・北畠顕家と北畠親房父子を補佐する。足利尊氏が建武政権から離反し南北朝時代になると、下総結城氏が足利方に従ったのに対し、白河結城氏は南朝方に属した。親光は尊氏が九州から入京を果たした際に尊氏暗殺を試みて失敗して殺され、宗広は北畠親子に従い続けたが、家督問題を巡って宗広と溝があったとされる親朝は常陸国へ渡り関東地方における南朝勢力を確保しようとした親房の救援要請に対し距離をおき、興国3年/暦応5年(1342年)に足利方に従う。宗広の意向に反して白河結城氏の家督を掌握した親朝は宗広が獲得した結城氏惣領の地位を否認して、自己の本領白河の確保と周辺地域への勢力拡大を目指すことになる。以降の白河結城氏については白河結城氏の項目を参照。
※この「白河結城氏と南北朝の争乱」の解説は、「結城氏」の解説の一部です。
「白河結城氏と南北朝の争乱」を含む「結城氏」の記事については、「結城氏」の概要を参照ください。
- 白河結城氏と南北朝の争乱のページへのリンク