白河藩主時代とは? わかりやすく解説

白河藩主時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 00:41 UTC 版)

阿部正外」の記事における「白河藩主時代」の解説

元治元年1864年3月4日幕命により白河藩相続10万石の大名となった白河藩は兄の死後同族阿部正耆藩主になっていたが同年3月2日急死遺児光之助(後の正功)が幼いために取られ処置だった。合わせて昇進図られ、箔付けのため6月22日名目上寺社奉行奏者番任命され2日後24日老中任じられ幕閣一員入ったまた、横浜港鎖港問題外国交渉担当する一方白河藩軍制改革にも取り組み、藩兵に洋式訓練を施すよう藩家老命じている。7月海路上洛する途中大坂軍艦奉行勝海舟面会、海舟からは外交姿勢高く評価されたが、阿部の方は海舟の政治思想である公議政体論危険視し、幕府報告して11月10日の海舟罷免関与した推測されている。 慶応元年1865年)、発言権強めていた朝廷から14代将徳川家茂の上洛と攘夷決行要請されたため、京都攘夷公家浪士らの牽制として、阿部本庄宗秀2月5日に兵4000率いて上洛し、22日参内し朝廷との交渉にあたる。この上洛は軍事力背景朝廷牽制一会桑政権解体目論んだとされるが、朝廷反感を買い逆に関白二条斉敬家茂上洛しないことを叱責され交渉後の24日朝廷側の要請を一旦江戸に戻って家茂伝えた4月上洛反対派老中稲葉正邦諏訪忠誠牧野忠恭同僚松前崇広水野忠精大老酒井忠績結託して失脚させ、5月16日家茂3度目の上洛に随行派兵命じた白河藩兵も約1200人が陸路・海路分かれて大坂城集結した家茂供奉した阿部は閏5月22日参内した後25日大坂下り第二次長州征討控えた幕府軍や藩兵と共に待機していたが、9月23日にイギリス・フランス・オランダ3ヶ国から要請されていた兵庫開港大坂開市めぐって兵庫交渉開始した阿部松前崇広と共に3か国に対して交渉したが、3か国が「兵庫開港について速やかに許否確答得られねば、もはや幕府とは交渉しない京都御所参内して天皇直接交渉する」と主張、3か国の強硬姿勢翻心することはないのではないか判断した阿部松前は、2日後25日大坂城戻り他の老中家茂協議の上で、やむをえず勅許開港を許すことに決めた。だが翌26日京都から大坂城参着した一橋慶喜朝廷から長州再征の勅許を得るため交渉していた)は、無勅許における条約調印不可主張するが、阿部松前はもし諸外国幕府越して朝廷交渉をはじめれば幕府崩壊するとした自説を譲らなかった。公方面前条約調印当否めぐった論争では、家茂が場の緊張感呑まれ泣きだしたという。 勅許を得るため外国との交渉延期主張した慶喜意見通り若年寄立花種恭と3か国交渉の結果延期と決まる一方朝廷阿部松前違勅咎め29日両名官位剥奪し改易勅命下し一会桑取り成し改易から謹慎変更)、家茂10月1日両名老中職から外し官位召し上げ国元謹慎処分にした(兵庫開港要求事件)。ただし、家茂はこの露骨な朝廷幕政干渉異議唱え孝明天皇慶喜将軍辞意伝えたといわれ、驚いた孝明天皇以後幕政干渉はしないと言ったという。阿部4日大坂出発して江戸へ戻り11月8日白河到着して謹慎慶応2年1866年6月19日隠居蟄居命じられ長男の正静が家督継いだ

※この「白河藩主時代」の解説は、「阿部正外」の解説の一部です。
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