阿部正耆とは? わかりやすく解説

阿部正耆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/16 02:44 UTC 版)

 
阿部正耆
時代 江戸時代後期
生誕 文政12年10月24日1829年11月20日[1]
死没 文久3年12月20日1864年1月28日[1]
改名 義三郎(幼名)、正耆
戒名 浄厳院殿徳誉賢譲良節大居士
墓所 多磨霊園(西福寺から改葬)
官位 従五位下従四位下播磨守侍従
幕府 江戸幕府奏者番
主君 徳川家慶家定家茂
陸奥白河藩
氏族 阿部氏
父母 父:阿部正粹、母:不詳
養父:阿部正定
兄弟 正耆、較姫ら
正室:阿部正寧の娘
側室:弦尾
正功ら、養子:正外
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阿部 正耆(あべ まさひさ)は、江戸時代後期の大名陸奥国白河藩の第6代藩主官位従四位下播磨守侍従。忠秋系阿部家14代。

略歴

文政12年(1829年)10月24日、阿部正粹阿部正精の長男)の次男として誕生。嘉永元年(1848年)に先代藩主・阿部正定が若死にしたため、養子となってその跡を継いだ。嘉永2年(1849年)6月に奏者番となるが、文久の改革で奏者番制度が廃止されたため、文久3年(1863年)4月から江戸、5月には大坂、8月には京都守護職となった松平容保の補佐として、それぞれ警備を務めるなど、佐幕派として行動した。しかし同年12月に病に倒れ、同月20日に死去した。享年36。元治元年(1864年)3月2日死去ともされている[2]

次男・正功は幼少だったため、養子・正外が跡を継いだ。

系譜

父母

正室

側室

  • 弦尾

子女

養子

脚注

  1. ^ a b 阿部正耆」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E9%83%A8%E6%AD%A3%E8%80%86コトバンクより2025年4月16日閲覧 
  2. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』新人物往来社、1986年、p.84。




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