本多忠方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/16 08:25 UTC 版)
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| 時代 | 江戸時代中期 | 
| 生誕 | 宝永5年(1708年) | 
| 死没 | 享保16年5月16日(1731年6月20日) | 
| 改名 | 平七郎(幼名)、忠方 | 
| 別名 | 監物(通称) | 
| 戒名 | 深高院殿前肥州宰吏勇誉真哲大居士 | 
| 墓所 | 兵庫県宍粟市山崎町上寺の大雲寺 | 
| 官位 | 従五位下肥後守 | 
| 幕府 | 江戸幕府 | 
| 主君 | 徳川吉宗 | 
| 藩 | 播磨山崎藩主 | 
| 氏族 | 本多氏(平八郎家) | 
| 父母 | 父:本多忠英、母:小池三平の娘 | 
| 兄弟 | 忠良、忠方、忠辰、忠強、花房職勝正室 | 
| 妻 | 正室:増山正任の娘 | 
| 子 | 養子:忠辰 | 
本多 忠方(ほんだ ただみち)は、江戸時代中期の大名。播磨国山崎藩の第2代藩主。政信系本多家3代。初代藩主・本多忠英の次男。
生涯
兄の忠良が宗家の越後村上藩を継いだため、享保3年(1718年)に父が死ぬと家督を継ぐこととなった。先祖の忠勝にあやかりたいという気持ちがあったらしく、藩政においては窮民を助けるなど力量を見せたが、享保の大飢饉がとどめとなって藩政は荒廃した。それでも忠方は藩政の再建を目指したが、そのような最中の享保16年(1731年)5月16日に24歳で死去した。子がなく、跡を弟の忠辰が継いだ。
系譜
固有名詞の分類
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