白河朝とは? わかりやすく解説

白河朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 10:06 UTC 版)

大江匡房」の記事における「白河朝」の解説

延久4年12月1073年1月)の貞仁親王即位白河天皇)後も引き続き五位蔵人務めとともに実仁親王東宮学士となり三代続けて東宮学士務める。延久6年1074年従四位下・美作守に叙任されて一旦弁官離れるが、翌承保2年1075年正四位下順調に昇進する美作守に任ぜられても引き続き東宮学士務めていたため、任地赴くことは多くなかった想定される一方で美作国在地豪族思しき藤原秀隆のために願文作成するなど在地民との関係が見られるほか、承保4年1077年)には、関白藤原師実から美作国所領譲り受けるなど、受領として経済的な躍進ぶりを示している。なお、この間承暦2年1078年)自らの邸宅江家文庫設置している。 承暦4年1080年権左中弁として弁官局復す当時一度地方官遷ると、そのまま転々と地方官渡り歩くケース多かったが、匡房は相応経済力蓄えて京官復したところに匡房の慎重さ窺い知れる一方当時宮廷において匡房のような故実精通した学者官僚が必要とされていたことも、京官への復帰を可能とした要素一つとも考えられる同年2月高麗王文宗から王の病気の治療のため、日本名医派遣要請する書状が届くも、朝議結果派遣を断ることに決まるが、匡房が断り返信起草した医師招請事件)。 その後永保元年1081年左中弁応徳元年1084年左大弁弁官にて累進する一方永保3年1083年式部権大輔兼ねたこの間永保元年1081年)匡房は蔵人頭を望むが、歌道競争相手でもあった下僚右中弁藤原通俊敗れ激し憤怒感情示した一方で永保2年1082年右大臣藤原俊家出家した際、白河天皇後任右大臣として中宮藤原賢子実父である顕房を念頭に匡房に相談するが、かつて教え受けた俊房の学才敬服していた匡房の意見によって、結局俊房を任じたとの逸話がある。匡房が大臣人事左右するほど白河天皇からの信頼厚かった様子窺われる

※この「白河朝」の解説は、「大江匡房」の解説の一部です。
「白河朝」を含む「大江匡房」の記事については、「大江匡房」の概要を参照ください。

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