中国軍の反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 08:52 UTC 版)
中国軍は前年の経験から、この日本軍の動きを原駐地への退却と見て、集結する日本軍を追撃しようと攻勢に転じてきた。5月10日、第33集団軍総司令張自忠将軍が5個師を率いて宜城付近から漢水を渡河し東岸へ進出した。5月12日、第11軍は第13師団、第39師団、池田支隊を大洪山系に集結した張自忠集団軍撃滅のため南下させた。この日、北方に残った第3師団に第31集団軍(湯恩伯軍)が四周から押し寄せ、張自忠集団軍の一部が日本軍の兵站線(応山―棗陽)を数日間遮断した。 5月16日、張自忠集団軍司令部から発信される無線電信からその位置を掴んだ第11軍は、付近の山地を攻撃中の第39師団に位置を通報した。歩兵第231連隊の第11中隊第1小隊(長:松本治雄少尉)は、高地の稜線上の敵を攻撃しながら斜面を進撃中、偶然にも地隙に潜んでいた中国軍高級将校の一団と遭遇、手榴弾を投擲した直後に突入して多数の将校を潰滅した。このとき押収した書類や私物類から、これが第33集団軍司令部であったと判明し、捕虜にした当番兵の証言や専田盛寿大佐(第39師団参謀長)の検死から張自忠将軍の戦死が確認された。将軍の遺体は中国側に引き渡すことになり、日本軍は丁重に埋葬し護衛兵だった捕虜にその旨を伝えて釈放した。その晩、数百人の中国兵が墓を夜襲して遺体を運び去って行った。
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