チェスト部隊
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1937年3月、少将に進級し、第6師団歩兵第36旅団長に任ぜられる。第36旅団は都城の歩兵第23連隊と鹿児島の歩兵第45連隊で編成されており、牛島が郷土部隊の指揮官となったというニュースは地元を賑わせた。まもなく支那事変が勃発し、牛島率いる歩兵第36旅団も出陣することとなった。歩兵第36旅団は8月初旬に鹿児島を出立し、海路朝鮮半島に渡ると、後は鉄道で華北にある山海関に到着した。既に戦況は激しく動いており、北京近郊に展開する蔣介石精鋭の中国国民政府軍第14軍の3個師団約12,000名が、八達嶺方面を進撃していた第5師団の側面を脅かすこととなっていたため、第6師団長谷寿夫中将は牛島に第36旅団の2個連隊で、中国軍の3個師団を撃破することを命じた。歩兵第23連隊と45連隊は、兵力では遥かに勝る中国軍が固く陣地化していた下馬嶺と千軍台の攻略をしなくてはならなかったが、8月30日に、下馬嶺を守る中国軍を偵察したところ、中独合作で中国を支援していたドイツ国軍の軍事顧問団の姿も確認できた。9月5日に牛島は陸軍飛行戦隊に航空支援を要請し、中国軍の陣地を九三式重爆撃機と九三式双発軽爆撃機が爆撃した後、2個連隊は激しく攻撃した。兵力に勝り火砲も充実していた中国軍の反撃は激しく死傷者が続出したが、着実に中国軍の陣地を攻略していき。9月8日には反撃してきた3,000人の中国兵を壊滅させると、9月13日には標高1,100mの最重要拠点千軍台を攻略し中国軍の敗残部隊は退却した。牛島は緒戦を華々しい勝利で飾ったが部隊の損害も大きく、第36旅団だけで将校7名、准士官以下170名が戦死し、将校13名、准士官以下358名が負傷している。 その後、牛島率いる36旅団は、9月中旬に保定、10月8日に正定、10月14日には石家荘南郊の内邸まで進撃し、牛島旅団の凄まじい突進ぶりに敵味方も舌を巻いて驚き、敵の中国軍からは「鬼将軍」とあだ名され恐れられた。旅団司令部は前線から遥か後方にあったが、牛島は幕僚を連れてよく最前線に出ていた。敵弾がとんでくるところで旅団長自ら偵察を行うこともあり、副官が危険だと告げると「おいばっかりに、弾丸めがけてきやせんぞ」と全く意に介さなかった。前線の兵士らと食事を共にすることもあり、兵士らと弁当のおかずの交換するなど気さくに接していた。 11月には、膠着状態にある上海方面の戦勢を打開するため、第6師団が同方面に投入された。第36旅団は上海上陸後、崑山から蘇州の線に沿って進撃し、12月11日に始まった南京攻略戦に参加した。牛島旅団は南京城から退却する中国軍の退路を絶ち、20,000名もの大量の捕虜と膨大な武器弾薬を捕獲し、ここでも勇名を轟かせている。南京戦後は、南京郊外の蕪湖地区に駐屯し、1938年7月に始まった武漢作戦にも、中核部隊として参加し、8月に要衝の黄梅を攻略した。中国軍は牛島らの急進撃に対抗するため、揚子江の堤防を決壊させて洪水作戦を行ない足止めしようとしたが、牛島旅団は洪水をものともせずに突進し、9月には難攻不落といわれていた広済要塞を攻略した。その勢いのまま10月に漢口市内に進撃すると、その勢いに押された中国軍は武漢三鎮を放棄し退却した。同年12月には第11軍司令官岡村寧次から牛島に感状が授与されている。牛島の第36旅団は、牛島が、関ヶ原の戦いのとき、島津義弘率いる島津軍が西軍敗戦後に敵中突破をしたときのかけ言葉と言われている「チェスト!行け!」(それ行けという意味)で将兵を激励することから『チェスト部隊』と呼ばれ、将兵らも誇りに思っていた。 南京攻略直前の11日の朝、突如一頭の鹿が迷い込み右往左往するのを見て牛島は傍らの旅団副官の江口中佐に命じ、この鹿を一発で仕留めさせた。その後、10分間黙考に至った牛島は旅団に攻撃命令を下達した 一、中原に鹿を見たり 二、敵首都南京は指呼の間にあり 三、三洲健児 (熊本・鹿児島・宮崎) チェストイケ 旅団長 牛島 満
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