中国軍の山岳浸透戦略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 04:11 UTC 版)
1950年11月に朝鮮戦争に参加した中国の抗美援朝義勇軍は、朝鮮人民軍を追撃して北上する国連軍(アメリカ軍主体)に対し、軽装備の歩兵を山岳丘陵地帯から迂回させる戦術を大規模に適用した。夜間行軍を伴う山岳機動を大規模に実施して成功したのは、第2次大戦後、中国大陸で武装解除した日本軍将校を招聘(しょうへい)して中国人民解放軍を訓練したことにも因っている。各所で側面や後方を脅かされたアメリカ軍は、自分たちが踏み込めない山野が中国兵で埋め尽くされていると感じ、敗走に移った。数日分の食糧を携えて山野を越える中国軍の機動は、道路輸送に完全に依存していた国連軍にとって予想外であり、戦略的奇襲となり、これは「人海戦術」としてアメリカで知られるようになった。 追撃が一段落してから、1951年2月に中国軍は再び攻勢に出て、初期の浸透には成功した。しかし、取り残された防御陣地を潰す際に、結局は歩兵による正面突撃、すなわち一般的な理解での「人海戦術」を採ることになり、機関銃等の重火器を備えていた国連軍の前に甚大な損害を蒙って(こうむって)失敗した。中でもM2重機関銃を4基搭載したアメリカのM16対空自走砲は掃討において大いに威力を発揮した事から「ミートチョッパー(挽肉製造器)」の異名で呼ばれた。 中国軍の伝統的なドクトリンは、国土防衛に重点を置いており、兵力の優位はまず自国の防衛を利するものとしている。近年の軍備近代化は攻撃能力向上を目指しているが、それはもっぱら質の向上に基づくものである。
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