中国軍の来攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 04:35 UTC 版)
昭和17年春、日本軍第15軍のビルマ攻略作戦の結果、中国軍は怒江を越えて遠く雲南へ敗退した。その後、中国軍は中国・ビルマのいずれの戦域でも決戦的な攻勢に出ようとせず、消極的な姿勢に終始した。これは、直属の兵力を消耗することにより自身の勢力を失うことを極度に警戒した蒋介石が、政治的な配慮により、英米両国軍の犠牲によって作戦目的を達成することを狙ったためだった。 しかし、昭和19年3月に日本軍が開始したインパール作戦が英印軍側に有利な展開となったほか、フーコン方面では、スチルウェル中将の率いる新編第1軍が日本軍第18師団の執拗な抵抗を破砕しつつ南下を続け、一路モガウンに迫っていた。また、3月初めに北部ビルマに降下したウィンゲート旅団は、北部ビルマの補給動脈(ミイトキーナ鉄道)を寸断し、各方面で遊撃戦を展開していた。 このような情勢の変化と、米国から強い要請を受けたこともあって、長らく形勢観望の姿勢を保ってきた蒋介石も、遂に怒江を越えて反攻に転ずる決意を固めた。そして、16個師からなる雲南遠征軍(司令官:衛立煌上将)は、昭和19年5月11日を期して、怒西(怒江西岸)地区に対して大挙反攻を開始した。
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