中国軍新編第1軍誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 02:15 UTC 版)
「ビルマの戦い」の記事における「中国軍新編第1軍誕生」の解説
その頃アメリカの中国戦略をめぐってはスティルウェルとシェンノートとが対立していた。フライング・タイガース司令官から昇格してアメリカ陸軍航空軍第14空軍司令官となり、中国空軍を指導していたシェンノートは、中国戦線に戦力を集中すれば制空権確保は可能であると主張した。戦力をビルマへ割くのを渋っていた蔣介石もこれを支持した。しかし、中国戦線での日本軍航空部隊との戦いはシェンノートの主張するようには進展しなかった。 一方スティルウェルは、ハンプ越えだけでは輸送量に限界があるとして、北部の上ビルマを日本軍から奪回し、インドのアッサム州レド(英語版)から国境を越えてカチン州に入り、フーコン河谷からミイトキーナ、ナンカンに至る「Stillwell Road」と、ナンカンから龍陵を経由し昆明へと至るビルマ公路を接続した、「レド公路」を早期に打通すべきと主張した。スティルウェルは、中国兵にアメリカ式の武装と訓練とを施して中国国内で30個師団、インドで数個師団を編成してビルマ北部奪回作戦に投入し、その後さらに中国軍全体を再建するという長期的な構想を持っていた。 スティルウェルはインドに退却してきた中国軍部隊にハンプ越えで空輸された中国兵を加えて、ビハール州(2000年、ジャールカンド州に分割された)のラムガルー野営地(英語版)で「新編第1軍(英語版)」を編成した。軍司令官にははじめ鄭洞国、後に孫立人が任命された。中国国内でも昆明に訓練所が設置された。蔣介石もスティルウェルの主張を認め、ビルマへの再出兵を容認する。
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