中国軍退却
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 11:20 UTC 版)
日中戦争において中国側国民革命軍は堅壁清野と呼ばれる焦土作戦を用い、退却する際には掠奪と破壊が行われた。中国軍が退却する前には掠奪を行うことが常となっていた[要出典]。1937年11月8日付の東京朝日新聞の朝刊2面によれば、掠奪の発生により実際は11月9日となった中国軍の退却が予測されていた。同年8月29日の読売新聞の第二夕刊1面では、中国政府は「徴発」に反抗する者を漢奸として処刑の対象としていたと報道されており、また、11月14日の東京朝日新聞の夕刊2面では、あるフランス将兵が中国の住民も掠奪されるばかりではなく、数が勝る住民側が掠奪する中国兵を殺害するという光景を何回も見たと報道されている。11月10日の東京朝日新聞の夕刊1面では、中国側の敗残兵により上海フランス租界の重要機関が放火され、避難民に紛れた敗残兵と便衣兵に対処するためフランス租界の警官が銃撃戦を行うという事件が起きたと報道された。11月11日の東京朝日新聞の夕刊1面では、上海の英字紙が中国軍が撤退にあたり放火したことは軍事上のこととは認めながら残念なことであるとし、一方中国軍の撤退により上海に居住する数百万の非戦闘員に対する危険が非常に小さくなったとして日本軍に感謝すべきとの論評がなされたことを報道した。[要検証 – ノート]
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