ビスマルク海海戦とは? わかりやすく解説

ビスマルク海海戦

(第八十一号作戦 から転送)

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ビスマルク海海戦 (ビスマルクかいかいせん、英語: Battle of Bismarck Sea) は[10]第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)3月2日から3月3日に、ビスマルク海からダンピール海峡[11]にかけての海域で、ダグラス・マッカーサー陸軍大将指揮下の連合国軍ニューギニア・オーストラリア方面部隊が日本軍の輸送船団に対し航空攻撃を行ったことで発生した戦闘のこと[12][13]




注釈

  1. ^ a b 3月2日の空襲で輸送船旭盛丸が沈没[6]、3月3日の戦闘で輸送船7隻および駆逐艦白雪と朝潮が沈没、3月4日に漂流中の荒潮と時津風が沈没した[7][8]
  2. ^ 木俣滋郎『日本水雷戦史』285頁では「全出撃137機。P-38 3機喪失、1機損傷。B-17 1機喪失、1機損傷。B-25 1機損傷。ボーファイター 3機損傷。戦死13名」と記述する[9]
  3. ^ 第五 第八一號作戰[19] 「カ」號作戰ノ爲ニ準備セル部隊ハ「ケ」號作戰ノ概成ト共ニ「ソロモン」方面ヘノ輸送ハ不必要トナリ陸海軍中央協定ニ基キ同兵力ヲ「ニューギニア」方面ニ転送シ該方面ニ於ケル戰略態勢ヲ強化スルコトトナリ輸送ニ関シ第八方面軍ト協定ス(「ニューギニア」方面ニ対スル兵力輸送ニ関スル陸海軍間協定覺書 二月十三日) 第四十一師團主力ノ「ウエワク」附近揚陸及本作戰実施ノ爲陸軍航空部隊展開ニ必要ナル基地員及物件ノ「マダン」「スルミ」及「ツルブ」ニ対スル輸送ハ何レモ豫定通完了セルモ第十八軍司令部及第五十一師團ノ「ラエ」ニ対スル船團輸送ハ事前「モレスビー」方面ニ対スル航空撃滅戰ノ実施不徹底ニ禍セラレ敵空軍ノ大集團攻撃ヲ受ケ潰滅スルニ至レリ(詳細FBG戰斗詳報)第二十師團ノ「マダン」輸送ハ前項「ラエ」輸送ノ失敗ニ鑑ミ敵機ノ攻撃圏ヲ考慮シ揚陸点ヲ「ハンサ」湾ニ変更(NTF信電令作第二號)陸軍航空部隊ノ直衛下ニ三月十二日揚陸完了セリ 〕
  4. ^ 駆逐艦8隻(白雪〈三水戦旗艦〉、第19駆逐隊〈敷波浦波〉、第8駆逐隊〈朝潮荒潮〉、第9駆逐隊〈朝雲〉、第16駆逐隊〈雪風時津風〉)、輸送船8隻(海軍運送艦野島、陸軍輸送船〈大井川丸、太明丸、建武丸、帝洋丸、愛洋丸、神愛丸、旭盛丸〉)[25]
  5. ^ ブナ警備隊指揮官安田義達海軍大佐(横五特司令)も戦死し[55]、二階級進級により海軍中将となった[56]
  6. ^ 日本陸軍航空隊と海軍航空隊が協同で船団護衛を実施した[69][70]。第17駆逐隊司令北村昌幸大佐を指揮官とする東部ニューギニア方面護衛隊(浦風谷風浜風磯風舞風)が[71]、輸送船5隻(海軍輸送船ぶらじる丸〈空母改装予定だったぶらじる丸は前年8月5日に沈没していた〉、陸軍輸送船くらいど丸、妙高丸、日龍丸、智福丸)を護衛する[72]
  7. ^ 1月7日の夜間空襲で日龍丸が沈没し、浦風や伊25潜水艦が救助した[75]。1月8日、ラエ泊地で空襲を受けた妙高丸が被弾し擱座した[75]。帰路、船団を襲撃した潜水艦アルゴノート (USS Argonaut, APS-1) を直掩機と駆逐艦が協同で撃沈した[76]
  8. ^ 第九戦隊司令官岸福治少将を指揮官とする丙号輸送部隊が編成され[78]、丙一号輸送部隊[79](第二十師団の釜山~パラオ~ウェワク輸送[80]。第一輸送隊〈北上、大井、讃岐丸、相良丸〉、第二輸送隊〈靖国丸、筥崎丸、新玉丸、初雪〉、第三輸送隊〈壽山丸、新京丸、敷波〉、護国丸愛国丸)、航空部隊(隼鷹、朝雲、五月雨)、隼鷹飛行機隊基地員輸送(春雨)、第二特別根拠地隊輸送部隊(巻波、第34号駆潜艇、輸送船2隻)が展開した[81]
  9. ^ a b ○外南洋部隊(二四-〇八二四)作94号[82] 増援部隊ハ陸海軍協定ニ基キ、駆逐艦八ヲ以テ、二-二八ラボール発、三-三ラエ着、「陸軍輸送船六、「野島」、陸軍海上トラック一」ノ護衛ヲ行フト共ニ、(イ)駆逐艦四 陸兵各150、防空隊(人員20及13m/m機銃三)及「ドラム」缶入糧食各50缶、(ロ)駆逐艦二 陸兵各150、ドラム缶入糧食各60缶、(ハ)駆逐艦二 陸兵各90、「ドラム缶」入糧食各60缶、ヲ輸送スベシ
  10. ^ 斯くてニューギニヤ正面の戰略要點ラエ、サラモアの戰備に一大缺陥を生じたるを以て敵の進攻氣勢とも關連し速急に同方面の戰備を強化し確乎たる作戰基盤を造成するを目下の急務とするに至つた。因て第八方面軍は第五十一師團主力を断乎海上輸送を以てラバウルよりラエに直送するに決し左の計畫の下に之を實施することとなつた[95] 
  11. ^ 第一航空戦隊には空母翔鶴が所属するが、南太平洋海戦で大破し横須賀海軍工廠で修理中だった[112]
  12. ^ 第10駆逐隊(秋雲夕雲風雲)、第9駆逐隊(朝雲)、第2駆逐隊(五月雨)、第27駆逐隊(夕暮)、白雪型(初雪磯波敷波)、睦月型(皐月長月)など[124]
  13. ^ 特設巡洋艦清澄丸護国丸愛国丸浮島丸を含む[125]。他に特設水上機母艦讃岐丸相良丸聖川丸、輸送船靖国丸、寿山丸、新京丸、新玉丸[124]
  14. ^ 1月24日、ウェワクに停泊していた駆逐艦春雨は米潜水艦ワフー (USS Wahoo, SS-238) の雷撃で大破した[127]。瑞鳳航空隊輸送のため2月15日にウェワクに到着した駆逐艦天津風浦風[124]、春雨を曳航してトラック泊地へ戻った[128]
  15. ^ 2月20日、ラバウルからウェワクに向かっていた輸送船団を米潜水艦アルバコア (USS Albacore, SS-218) が襲撃して駆逐艦大潮(第8駆逐隊司令佐藤康夫大佐)が大破、駆逐艦荒潮による曳航中に沈没した[130]
  16. ^ 軽巡洋艦川内、駆逐艦朝潮荒潮白雪初雪皐月水無月文月長月雪風時津風朝雲峯雲浦波敷波村雨五月雨など[142]
  17. ^ (6)航路計畫[160] 三月一日〇〇〇〇ラバウル發船團速力七節、ニューブリテン島北方接岸航路を執り三月三日一七〇〇ラエ泊地着直に揚搭、翌四日日出前揚搭完了、ラエ發往航を逆航ラバウル歸投
  18. ^ 1943年(昭和18年)3月15日付で第7艦隊 (U.S. Seventh Fleet) が新編されると、同艦隊直属の第70任務部隊第1群に改称された[4]
  19. ^ (略)[186] 翌二日〇八〇〇前後より敵大型機一〇機の爆撃を受け第五十一師団長乗船の旭盛丸被弾炎上約一時間にして沈没(人員物件は驅逐艦二隻に移載ラエに先行揚陸)した
  20. ^ 『戦史叢書40巻』では朝雲に819名と記述する[179]。『戦史叢書96巻』56-57頁では「朝雲と雪風に918名収容」と記述する[6]
  21. ^ a b c 八十一号輸送作戦[187] (一)二日被爆沈没、旭盛丸遭難者ヲ搭載シ、二三二〇「朝雲」「雪風」入港、第五十一師団長以下約一〇〇〇名揚陸、〇一三〇出港。(二)三日〇八〇〇フィンシュハーフェン東南50′附近ニテ船団潰滅スルニ至リ、陸海軍協議ノ上、陸軍大発七隻、現場ニ派遣シ救助ニ向ハシメタルモ、敵機ノ妨害ヲ受ケ予定地点ニ到達セズ。四日夜間ラエニ皈着。(三)四日夜間大発ヲ以テサラモア東方40′圏ヲ捜索セシメタルモ漂流者ヲ見ズ(以下略)
  22. ^ 〔 ○第八艦隊司令長官(二-一〇四二)宛「初雪」、第三水雷戦隊司令官[189] 速ニ出撃、「ラエ」輸送損傷輸送船ヲ救援スベシ。/○第九駆逐隊(二-一二三〇)きょくせい丸人員救助作業終了。大隊長以下将校57名、下士官兵765名、内負傷、陸軍76名。我今ヨリ追及ス
  23. ^ 後日、市丸利之助海軍少将は牧飛長の武勲を称えて「要塞と敵の誇りしボーイング、墜とすは誰ぞ、あゝ体当たり」と吟じた[206]。牧は二階級進級した[206]
  24. ^ 木俣滋郎『日本空母戦史』447-448頁では3月3日の連合軍第一次攻撃隊について「B-17が13機、ボーファイター13機、B-25が12機、A-20が12機、P-38が16機」と記述する[188]。奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』246頁では「第一次攻撃隊:P-38 30機、B-17 15機、A-20 40機。第二次攻撃隊:P-38 22機、B-26 6機、A-20 数機」と記述している[209]
  25. ^ 〇八〇〇より新戰法(中型爆撃機に搭載した爆弾を低高度にて投下し其の水面反跳力を利用し艦船の舷側に命中せしめ舷側破口より浸水沈没せしめる方法)に依る猛爆撃を受け船團、護衛艦相次で被害を生じ〇八一〇頃迄に全輸送船炎上、驅逐艦二隻沈没、一隻大破するの大損害を蒙りラエ輸送の目的は完全に破砕せられた[186] 
  26. ^ 三、護衛隊[213] (イ)「白雪」〇九三五沈没(「敷波」救援)。(ロ)「荒潮」艦橋及二番砲被爆、舵故障、「野島」ト衝突、艦首大破、兵科士官全部戦死(「朝潮」救援)。(ハ)「時津風」機関室右舷ニ被雷、航行不能(「雪風」救援)、「敷波」「朝潮」「雪風」「浦波」「朝雲」被害軽微ナリ、戦闘航海差支ナシ。
  27. ^ a b ○増援部隊(四-〇一三五)[220] 二三一五「雪風」ハ「荒潮」ヲ発見、人員146名収容セリ。「荒潮」第二次攻撃ノ為更ニ大破、浸水、傾斜次第ニ増大シ沈没確実ト認ム。右ノ外、艦船其ノ他ヲ認メズ。〇一〇〇救援作業ヲ打切リ北上ス。燃料ノ関係上、カビエンニテ「川内」ヨリ補給ノ上、ラボール回航ス
  28. ^ a b ○第十六駆逐隊(四-〇二一五)[221] 〇〇一五「荒潮」ノ現乗員全部約一七〇名、「雪風」ニ収容。同艦三日午前ノ空襲ニヨリ艦橋及二番砲被弾、舵取装置故障ニヨリ「野島」ト衝突、艦首圧潰ス。間モナク陸兵並負傷者ヲ「朝潮」ニ移乗セシメタル後、北方ニ避退中、午後再ビ被弾、航行全ク不能ニ陥リ漂流中「雪風」ニ発見セラレタルモノナリ。「雪風」到着時、既ニ左舷ニ約30°傾斜、上甲板水線水面ニ接シアル情況ニテ、漸次傾斜ヲ増大、放置スルモ自沈確実ナリト認メタルヲ以テ処分ヲ取止ム(以下略)
  29. ^ 荒潮は残留乗組員により北方への退避を続行している[222]
  30. ^ 後日、アトキンズは駆逐艦メルヴィン英語版 (USS Melvin, DD-680) 艦長となり、レイテ沖海戦スリガ海峡夜戦で戦艦扶桑撃沈に貢献した。
  31. ^ 午後残存驅逐艦四隻竝にカビエンより救援の爲來會した驅逐艦一隻を以て遭難者を捜索救助し四日〇〇四〇捜索を打切りダンピール海峡を北上カビエン及ラバウルに分離歸投した[228]
  32. ^ 3月4日、九五八空の水偵がゴム浮舟等を投下した[229]。3月5日、陸攻6と零戦17が出撃し、救命具を投下[227]
  33. ^ 駆逐艦2隻(村雨、峯雲)は[237]、輸送を終えたあとの3月4日深夜に生起したビラ・スタンモーア夜戦で沈没した[238]
  34. ^ a b c (前略)[242] 米軍の残虐性を皮肉にも彼の味方である英國の週刊誌が、次のやうに暴露してゐることを讀賣新聞ジュネーヴ特電が報道してゐる。― 去る十月九日付(昭和十八年)のイギリス週刊誌ニュー・リーダーは大東亞戰域における米軍の殘虐性を立證する次の如き記事を掲載してゐる。
     即ち二、三ヶ月前に西南太平洋上で日本の一護送船團が米機の襲撃を受け輸送船一隻が撃沈せられた、多數の人員を乗せた船舶が人喰ひ鮫の充滿せる海洋中に沈没するといふことだけでも既に怖るべき事柄である。しかるに沈没に引續いて行はれた意識的計畫的な「筏や救命艇に乗つた防衛力なき日本兵に對する大量殺戮」はまさに殘虐の極みといふべきであらう。當時濠州軍本營の公式發表の爆撃機隊が生き殘つた日本兵の乗つてゐる多數の救命艇に爆弾を浴せこれを沈没せしめたと傳へてゐた。即ち海中から救助された者を満載した多數の内火艇が計畫的に撃沈せられたのである。その翌朝も更に殘りの内火艇や、救命艇や、筏などが米國兵の殺伐な殲滅慾の犠牲となつた。UP通信の一報道によれば、「幸じて岸邊にたどり着いた文字通り疲勞困憊の極に達した武器も持たぬ日本兵がアメリカの守備兵等のために一人殘らず殺戮されてしまつた」 といふことである。更にニュー・リーダー誌の報ずるところでは、その後ニユース・ウイーク紙によつて傳へられた他の報道によつても、これが決して日本側の宣傳でないことは明かである。その報道によると、この護送船團戰は類例なき殺戮を以て終りを告げてゐる。即ちその翌朝ニューギニヤ北方海面は日本兵の生存者たちを乗せた多數の救命艇や、筏や、内火艇で充滿してゐた。そして反樞軸空軍の大編隊が、容赦なくこれらの防衛力を失つた人々に銃爆撃を浴せかけたのである。司令官の一人は、まだ百名ほどの日本兵が潜水艦に救助されてゐるとの報告を受けるや、立ちどころに「ボーフアイター機を一編隊直ちに出動させろ、さうすればまだ〱多數の日本兵をやつゝけることが出來る」と命令したといふことである。
  35. ^ ○伊一七潜(五-一八三五)[243] 一.〇五〇〇7°-28′S 148°-27′Eニテ短艇二隻ヲ発見近接中、敵魚雷艇二隻ノ来襲ヲ受ケ潜航、爾後二時間ニ亘リ追躡(爆雷攻撃三回)ヲ受ケ、短艇ハ魚雷艇ヨリ機銃掃射ヲ受ケオレリ。二.駆逐艦漂流地点附近捜索セルモ発見セズ。三.収容人員三四名(内重傷一)
  36. ^ 江戸少将は3月23日付で横須賀鎮守府付となり、後任の三水戦司令官は秋山輝男少将(海兵41期)となった[274]
  37. ^ 〈ハンサ輸送部隊〉輸送船6隻(桃山丸、安島丸、旺洋丸、阿蘇丸、帝竜丸、しどにい丸)、駆逐艦5隻(秋雲、風雲、夕雲、五月雨、皐月)、帰路の空襲で桃山丸が沈没した[286]
  38. ^ 〈フィンシュハーフェン輸送部隊〉駆逐艦4隻(文月、長月、皐月、水無月)で第十八軍の将兵800名、糧食と弾薬80トン[286]
  39. ^ 潜水艦による輸送を「もぐら輸送」と呼称し、一部の潜水艦は運貨筒を使用した[296]

出典

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