収容捕虜とは? わかりやすく解説

収容捕虜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 04:08 UTC 版)

カウラ事件」の記事における「収容捕虜」の解説

収容捕虜:枢軸国捕虜イタリア人日本軍従事していた日本人朝鮮人)・被拘束市民オランダ領東インド政府により拘束されていたインドネシア人)約4,000名が収容されていた。1944年8月時点オーストラリア国内捕虜数は、2,223名の日本人捕虜(544名の海運業者を含む)、イタリア人捕虜北アフリカ戦線より)14,720名、ドイツ人1,585名(海軍海運業者)この内、1,104名の日本人カウラ収容所にいた。 日本軍捕虜1943年1月から入れられた。最初に入ったのはヘイ収容所から移送され豪州捕虜第1号豊島一次に捕虜となった高原希国など6名で、その後もしばらくはポートモレスビー作戦ラビの戦い捕虜となった海軍航空兵中心であったが、間もなくビスマルク海海戦ブナの戦いなど、ニューギニア方面での戦闘捕虜になった陸軍大半占めるようになる捕虜たちは、トマトブドウ栽培為の伐採といった、農業行っていた。また警備緩くオーストラリア軍負傷者栄養失調者などを含む捕虜に、手厚い看護介護施した日本人人気の高い野球相撲麻雀などのリクリエーション活動自由に許され野球バックネット運動場建てる写真残されている。 インドネシア人捕虜については当時オランダ領東インド政府にあったインドネシアでは、愛国主義者たちはイリアンジャヤ(オランダ・ニューギニア)の収容所1927年以来捕囚されていた。しかし日本軍の占領行動により、オランダ政府は彼らが日本軍参軍するのを危惧してオーストラリア政府収容依頼したオーストラリア政府は、オーストラリア憲法違反するために解放。彼らにとってより適した気候クイーンズランド州農業自由に行う。終戦後インドネシアへ帰国した

※この「収容捕虜」の解説は、「カウラ事件」の解説の一部です。
「収容捕虜」を含む「カウラ事件」の記事については、「カウラ事件」の概要を参照ください。

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