収容所解放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 17:05 UTC 版)
詳細は「ダッハウの虐殺」を参照 1945年4月29日、ダッハウ強制収容所の監視塔は連合軍に占領され、白旗が翻った。赤十字代表モーラーは強制収容所を正式に降伏させるため、仮任命されたばかりのハインリヒ・ヴィッカー所長を収容所の正門に呼び出そうとしていた。1945年4月29日午後遅く、ダッハウ強制収容所はハインリヒ・ヴィッカーSS少尉によりアメリカ軍に降伏した。降伏の際の情景が、ヘニング・リンデン准将の公式報告「ダッハウ強制収容所の降伏に関する報告」に鮮やかに描かれている。 強制収容所の西側に沿って移動し南西角に近づくと、3人が休戦の白旗を持って近付いてきた。南西門の北75ヤード付近で3人と会った。この3人はスイス赤十字の代表一人と収容所司令官と司令官補佐というSS2人であった。スイス赤十字の代表は、通訳を務め、収容所には監視塔の分を除いて武器を放棄したSSが約100人いると述べた。攻撃しないことと収容所に半狂乱の捕虜が42,000人居りその多くはチフスに罹っているので監視員を救済するのに50人を割くよう命じたと言った。アメリカ軍の将校かと聞くので、「そうだ、第42師団の副司令官で、アメリカ軍の虹部隊の名の下に収容所の降伏を受け入れに来た」と答えた。 収容所が連合軍に降伏すると、収容所守備部隊は米兵が行った即決裁判による銃殺刑(いわゆる「ダッハウの虐殺」)の恐怖におののいた。殺された正確な人数は不明であるが、ある資料によるとこの方法で処刑されたのは35人に過ぎず、残りの515人は恐らく逮捕されたり逃亡したと考えられている。米兵に殺害された者の中には、ダッハウ収容所最後の所長となったヴィッカーSS少尉もおり、兵士らに私刑を受けた後に銃殺された。その遺体は収容者の遺体と共にしばらく放置された。 アメリカ軍は32,000人の囚人を見付けた。定員250人の収容棟20棟には囚人が1,600人ずつ詰め込まれていた。アメリカ軍は39輌の列車に各々100体以上の遺体が詰め込まれているのも発見している。 収容所は1945年4月29日にアメリカ第7軍第42歩兵師団により解放されたということになっていたが、場所や存在は知られていなかった。この部隊は命令もなく他の部隊から准将として入隊することを拒否されたフェリックス・L・スパークス中佐が指揮していた。スパークスは告発され、逮捕されたが、告発はジョージ・パットン将軍が退けた(スパークスは本当に第45歩兵師団第157歩兵連隊に加わっていた。第42師団や第45師団という部隊は、実際にダッハウに一番乗りしたことについて不和の間柄であった)。パットンは吐き気をもよおすような収容所の状況に衝撃を受けたといわれる。 なお、実際には日系アメリカ人部隊である第442連隊戦闘団所属の第522野戦砲兵大隊が収容所周辺における掃討作戦の中心的存在となっていたが、このことは1992年(ジョージ・H・W・ブッシュ政権下)まで公開されなかった。 アメリカ軍は婦女子を含む地域市民に収容所に来ることを命令し、収容所の中を見せ、施設の掃除を手伝わせた。地域住民はこのような扱いに憤り、収容所で何が起きていたか知らなかったと言ったがアメリカ軍は取り合わなかった。
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