収容所移動から脱走計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 04:08 UTC 版)
「カウラ事件」の記事における「収容所移動から脱走計画」の解説
1944年6月3日、カウラに来て間もない朝鮮人日本兵捕虜の松本タケオより、捕虜が脱走を企てているとの密告があった。これを重く見たシドニー地区司令部は6月19日、ヴィッカース機関銃2丁を追加配備、更にカウラの収容人数が大幅に定員オーバーした事もあり、将校・下士官を除く兵士700名を、400km西に位置するヘイ(Hay, ニューサウスウェールズ州)の第8捕虜収容所に移すことを計画。通達はジュネーヴ条約第26条の規定に基づいて移送の前日に行うよう指示されたが、Bキャンプ司令官のラムゼー少佐は3日早い8月4日午後2時ごろ、捕虜の中心格であった金沢、小島、豊島の三名に通達した。移送者のリストをその場で直接見せ、豊島が懸念を示したとも、兵士の分離を敢えて伏せていたが警備兵の一人が口を滑らし、それを豊島が数時間後に確認して発覚したたともされる。日本兵にとって、下士官と兵の信頼関係は厚く結ばれたものであるという理論に基づき、全体一緒の移送ならば良いが、分離しての移管を受け入れることができない日本兵は、それを契機として捕虜収容所からの脱走を計画することになる。 事件後、金沢は13日の査問会議にて、脱走の目的を「日本人として虜囚の恥を偲び難く、常に死の機会を求め来るとき、分離問題は我らの死の時期到来とし、1104名が一様に決着せる死の行動なり。」と述べている。すなわち、行動の本質は脱走ではなく、他力による死であった。 日本人捕虜は同日午後5時、事務所の幹部10名と班長40名を集めてミーティングを開き、要求を受け入れるか、反対して攻撃をするかの議論を行った。急に降ってわいた話ゆえ、名案が出ることもなく、多くは黙りこくり、腹の探り合いをしていた。高原によれば、中には「九死に得た一生だ。この命を大切にしたい。日本へ帰りたいし、肉親に会いたい。」といった発言をした者もいたが、誰も賛同する者はおらず、第26班長の森田健司一等兵によれば、やがて強硬派班長の下山が立ち上がり、「貴様らそれでも軍人か。非国民は俺が始末してやる」と喚き、それに星野新六一等飛行兵が同調、全員の痛いところを突かれたため場の空気が一変したという。以降数時間はほぼ両者がリードして出撃を力説、他の班長はほとんど無言だったという。ただし、両名とも新参者で本来発言権は低く、第14班長の大西治房軍曹は、小島と豊島が扇動したのではないかと推測している。一方、高原によれば豊島は会議直後、「下山のやつ、えらそうなことばかりいいおって。脱走しようとした事もないくせに」と愚痴をこぼしていたという。 最後にとある班長(中野は堂であると推測している)の提案で一旦会議を中止し、捕虜全員の多数決投票を行う事になった。この際、トイレットペーパーに移送受諾か否かを○×で行ったという。「脱走に非参加」と投票した者も少数いたが、結果として、移送計画へ協調しない、すなわち脱走することで決定した。当時の集団心理としてのけ者になる、目立つことへの恐怖の心理が投票に強く働いて、ほとんどが脱走に賛成したことを現生存者は証言している。戦後、中野不二男は生存者100人に対し、投票結果と本心はどうであったかのアンケート調査を行った。回答したのは36人であったが、うち投票・本心ともに○であったのは6人に過ぎず、投票・本心ともに×が10名、本心は×だが投票で○とした者が14人となった。無回答や事件後の反省感情も考慮して多少の割引はあれど、80パーセントが反対であった事になる。 班長会議で作成された作戦命令が各班に配られ、捕虜たちは準備を整えたのち、残飯で作ったどぶろくをあおった。作戦命令の作成者は不明だが、内容は機関銃座の奪取、その掩護下に鉄条網を突破して守備隊宿舎を制圧したのち裏手の丘に集結、以後の行動はその時点で決定する事、病弱者、歩行不能の者は事前に身を処置する事とした。
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