「パシー大佐」としての活動
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「アンドレ・ドゥヴァヴラン」の記事における「「パシー大佐」としての活動」の解説
1940年7月1日、ドゥヴァヴランはロンドンでシャルル・ド・ゴール率いる自由フランスに入り、対独抵抗活動を開始した。ドゥヴァヴランは情報局(Service de Renseignements 、SR)を組織し、情報部門の長となった。パシーの偽名はこの頃から用いられたものである。情報局は1941年4月15日に情報・行動中央局(BCRA)と改称・改組され、ピエール・ブロソレットやジャン・ムーランといったフランス国内のレジスタンスとの連絡に当たった。 1943年にはフランス軍の情報機関fr:Deuxième Bureauを国内で再建する活動を開始、レジスタンスの全国組織全国抵抗評議会の結成にも尽力した。10月に自由フランス軍とアンリ・ジロー率いる北アフリカ旧ヴィシー軍が合併されると、情報・行動中央局もそれにともなって改組された。アルジェに設置された特殊戦力総局(fr:Direction générale des services spéciaux、DGSS)の長には自由フランス情報相であったジャック・スーステル(fr:Jacques Soustelle)が就任した。 1944年2月にドゥヴァヴランは内地フランス軍(フランス語版、英語版)のマリー=ピエール・ケーニグ(fr:Marie-Pierre Kœnig)の参謀長となり、8月5日にブルターニュ地方のガンガンにパラシュート降下した。またパンポル(fr:Paimpol)の捕虜収容所解放も行った。パリの解放後の9月には特殊戦力総局に戻り、アメリカ、インド、インドシナ、中国などの作戦に従事した。 11月16日に特殊戦力総局は研究・調査局(fr:Direction générale des études et recherches、DGER)と改称された。1945年4月18日にドゥヴァヴランはフランスに戻り、研究・調査局の長官となった。しかしこの頃からフランス共産党などの左派勢力によって、ド・ゴール派の運動資金に政府の資金を流用したというキャンペーンが行われた。
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