「パキスタン」構想
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「ムハンマド・アリー・ジンナー」の記事における「「パキスタン」構想」の解説
アーガー・ハーン3世、チョウドリー・ラフマト・アリー、ムハンマド・イクバールなどのイスラーム指導者は、ジンナーが再びムスリム側の団結をとりまとめてくれることを期待して、インドへの帰国を促した。1934年、ジンナーは帰国してムスリム連盟の再編成に奔走し始めた。ジンナーの活動にはリヤーカト・アリー・ハーン(en)の協力があった。しかし、1937年に実施された総選挙では、全国のムスリムのわずか5%しか支持が得られなかったばかりではなく、ムスリムが多数を占めるパンジャーブ、シンド、北西辺境州といった地域でも惨敗を喫した。惨敗の原因は、パンジャーブやベンガルも含めた全国規模でのムスリムの置かれた状況を政治課題に掲げていたジンナーをあくまで個人レベルで支持する層はいたが、各地で結成された地方政党は宗教を軸に結成された政党ではなく、あくまでも農民階層の権益保護を目的としていた。したがって、農民の支持はこれら地方政党に流れた。しかし、インド国民会議派が「大衆との接触」運動を展開すると、徐々にではあるがムスリム側にもヒンドゥー色が強くなる国民会議派に対する疑念が生じるようになった。その過程で、「パキスタン」構想が現実味をもったものとして急浮上してきたのである。 「パキスタン構想」の端緒は、ムハンマド・イクバールによるムスリムがインド国内でまとまった領土を持つことを主張した、1930年の連盟の議長演説である。1933年には、チョウドリー・ラフマト・アリーにより北西インドを「パキスタン」と呼ぶパンフレットが配布された。ジンナーはムスリム連盟が全国的に支持を集めるため従来の考えを捨て、イクバールが提唱した「パキスタン」構想の実現へと方針を大きく転換させた。この構想に基づき、ムスリムが自らの権益を護るためにはヒンドゥーが多数を占める統一インドとは別個の独立国家が必要であるという主張が展開された。ジンナーは、ムスリムとヒンドゥーは明確に別個の民族であり、両者の間には妥協して歩み寄る余地のない決定的相違があるという考えを持つにいたり、このような考えは、後に「二民族論」(Two-Nation Theory)として知られるようになる 。この考えは後にパキスタンがインドとは別個の国家として分離独立するさいの基礎理念となった。ジンナーは、もしヒンドゥー多数派のインドと一体となった形で独立した場合、そのような国家においてムスリムは社会の周縁においやられ、最終的にはヒンドゥーとムスリムの間での内戦に発展するだろうと宣言した。ジンナーの考え方の転換は、イクバールがジンナーと親密な関係を築いたためであるとされる 。 第二次世界大戦中の1940年に開催されたムスリム連盟ラホール大会において、ラホール決議(Lahore Resolution)が採択された。ジンナーは、議長演説で以下のように述べた。 広く認知されているように、ムスリムは少数民族ではない。……国民という言葉のいかなる定義に照らしても、ムスリムは一国民であり、その故国、その国土、その国家をもたなければならない。われわれは、自由で独立した国民として、隣国の人々とともに平和に、協調しつつ生活することを願う。我々は、我々の国民が、最善と思われる方法により、理想にしたがい、資質を生かし、精神、文化、経済、社会、政治を十二分に発展させることを願う。 こうして、ジンナーは「インド亜大陸のヒンドゥーとムスリムは互いに異なった民族である」(二民族論)と宣言し、ムスリム人口が多数を占める地域がヒンドゥー人口多数地域とは別に独立することを目指す決議を採択させた。 この様なジンナーの主張は、統一国家としての独立を目指す国民会議派によって否定され、またマウラーナー・アブル・カラーム・アーザード(en)、ハーン・アブドゥル・ガッファール・ハーン(en)、マウドゥーディーといったイスラーム指導者、あるいは他のムスリム政党ジャマーアテ・イスラーミーからの非難を浴びた。1943年にはジンナーを敵視する政治団体から暗殺されかかり、その際に刺傷を負った。
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