「バーブ」艦長
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「ユージーン・B・フラッキー」の記事における「「バーブ」艦長」の解説
「バーブ (潜水艦)」も参照 1943年11月、フラッキーはニューロンドンに赴き、太平洋艦隊潜水部隊に配属されるバーブの艦長に就任することを通告された。バーブはここまで大西洋と太平洋で7回の哨戒を経験し、4月25日にミッドウェー島に帰投したところであった。フラッキーは4月27日に着任し、以後バーブの艦長として5回の哨戒を行って「第二次世界大戦での偉大な潜水艦長」の一人として地位を確立することとなった。1945年7月22日夜には、乗組員で上陸部隊を編成し樺太東線に爆薬を仕掛けて16両編成の列車を吹き飛ばしたが、これは第二次世界大戦中唯一の、潜水部隊による「上陸作戦」として記録された。フラッキーは上陸作戦を行うにあたり、艦のあらゆる配置から志願者を求め、またボーイスカウト出身者を特に選んで編成した。かくて編成された「上陸部隊」は、ポール・サンダース(英語版)を筆頭にウィリアム・ハットフィールド、フランシス・セイヴァー、ローレンス・ニューワード、エドワード・クリングスミス、ジェームズ・リチャード、ジョン・マークソンおよびウィリアム・ウォーカーといった顔ぶれで編成され、ハットフィールドは線路の下に爆薬を仕掛け、遠隔操作で爆破できるようコードを張り巡らす担当に就いた。 フラッキーはバーブでの哨戒のうち、11回目の哨戒を除く4つの哨戒での功績で海軍十字章を授与された。11回目の哨戒では中国沿岸部42キロ範囲内、水深約37メートルの浅海にあった2つの船団に対して後方から攻撃を仕掛け、2隻の護衛艦が追跡してきたのを受けでバーブは通常比150パーセントのエンジン出力を行って23.5ノットの高速で海域を抜け出した。このフラッキーの顕著で大胆な攻撃に対して、海軍十字章より上の名誉勲章が授けられた。また、8回目と11回目の哨戒に対しては殊勲部隊章(英語版)を、12回目の哨戒に対してはさらに海軍部隊表彰(英語版)も受章した。フラッキーは、1992年に出版した自著 "Thunder Below!" でバーブでの日々を次のように述べている。「砲弾、爆弾および爆雷をもってバーブを痛めつけようとも、バーブはそのたびにパープルハートをもらうことなく潜り抜けて、いつでも戦う準備が整っていた」。
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