「二民族論」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/15 04:19 UTC 版)
「インド・パキスタン分離独立」の記事における「「二民族論」」の解説
第二次世界大戦の結果、イギリスは勝利したものの疲弊して超大国の地位から転落することが確実となり、脱植民地化の流れが強まるなかで最大の植民地であったイギリス領インド帝国の解体は不可避になっていた。 しかし、当のインドでは多数派(マジョリティ)のヒンドゥー教徒と社会的少数者(マイノリティ)であるイスラム教徒の対立は激しさを増し、特にムハンマド・アリー・ジンナーを指導者とする全インド・ムスリム連盟は1940年のラホール決議(Lahore Resolution)で「二民族論」(Two-Nation Theory)を唱え、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の分離を強硬に主張していた。 マハトマ・ガンディーはこうした分離の動きに強く反対して統一インドの実現を唱えており、インド国民会議派も政教分離・世俗主義の立場から宗教による分離には慎重で、インド共産党やヒンドゥー・ナショナリストもそれぞれの反応をみせたが、分離の勢いが止まることはなかった。
※この「「二民族論」」の解説は、「インド・パキスタン分離独立」の解説の一部です。
「「二民族論」」を含む「インド・パキスタン分離独立」の記事については、「インド・パキスタン分離独立」の概要を参照ください。
- 「二民族論」のページへのリンク