西パキスタンにおける反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 16:16 UTC 版)
「ベンガル語国語化運動」の記事における「西パキスタンにおける反応」の解説
ベンガル語運動は東ベンガルと後の東パキスタンの多くのベンガル人の民族主義の基盤を築いたと見なされているものの、東西パキスタンの権力者間の文化的敵意も高めた。パキスタン自治領の西翼では、この運動はパキスタンの国益に対する部分的な反乱と見られた。「ウルドゥー語のみ」政策の拒絶はムスリムのペルシア–アラビア文化とパキスタンの建国イデオロギーである二民族論(英語版)の違反と見られた。パキスタン西翼の最も権力のある政治家の一部はウルドゥー語をインド・イスラム文化の産物と見なしていたが、ベンガル語は「ヒンドゥー化された」ベンガル文化の一部と見ていた。ほとんどは、パキスタン固有のものではない単一の言語のみが国語としての役割を果たすべきである、と信じていたため、「ウルドゥー語のみ」政策を支持した。この種の考え方は、複数の言語グループが存在していた西翼内でのかなりの反発も引き起こした。ようやく1967年に、軍事独裁者アユーブ・ハーンは「東ベンガルは、今でも相当なヒンドゥーの文化と影響の下にある」と述べた。
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