西ピレネー戦線
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ピレネー山脈の西側では、1793年に何度か小規模な衝突が起きた。ボン・アドリアン・ジャノー・ド・モンセー率いる第5軽半旅団は6月6日にアルデュードで、7月23日にサン=ジャン=ド=リュズで戦っている。 1794年2月5日、サン・キュロット・キャンプの戦いにおいて、フランス軍はホセ・デ・ウルティラ率いるスペイン軍(歩兵1万3000人、騎兵700人および砲兵)からアンダイエ近くの丘を守り切った。スペイン側の損害は335人、フランス側は235人だった。6月3日、フランスのクロード・ヴィクトル=ペラン率いる2300人の旅団がサン=ジャン=ピエ=ド=ポルから13.5㎞離れたディスペギー峠の要塞を襲撃した。スペイン側の守備兵はサモラ歩兵連隊に所属する大隊、アルデュード狙撃兵の三個中隊、フランスのエミグレによるレジヨン・ロワイヤル大隊を含む1000人ほどだった。スペイン軍は94人が死傷し、307人が捕虜となった。フランス側の損害は軽微だった。同日、ジャック・ルフラン率いるフランス革命軍2000人の部隊がディスペギー尾根を制圧した。 1794年3月3日、サールやイチャスーなどフランス領国境地帯の9つのバスク人村落が革命政府により「不名誉」の烙印を押された。これは、フランス軍に国境警備を任されていた74人の若い住民がスペイン・バスク地方に逃亡したためである。残った全住民にこの逃亡事件の責任が負わされ、厳格な処置が下された。3歳から88歳までの全住民が荷車に囚人のように押し込まれ、ガスコーニュのランドの森に連れ去られた。ここで彼らは男女が隔離され、価値のある所持品は没収、焼却された。数千人が国外追放を宣告され、5か月の間に1600人(うちサール住民が600人)が死亡した。生き残った者の大部分は、数年のうちに故郷に戻ることができた。 6月23日、ドン・ベンチュラ・カーロ率いる歩兵8000人と500騎の騎兵、砲兵のスペイン軍がカルヴェール山山頂のフランス軍を追い払おうとしたが、失敗した。スペイン軍は500人が死傷し、34人が捕虜となった。一方フランス軍の損害は戦死30人、戦傷200人だった。7月10日、Antoine Digonet率いる4000人のフランスの旅団が、エリソンドの南10㎞のArquinzu山を守っていたサモラ歩兵隊とレジヨン・ロワイヤルを圧倒した。スペイン軍は、エミグレの指揮官マルキ・ド・サン=シモンをはじめ314人を失った。フランス軍は、ここで49人の王党派捕虜を処刑した。 7月23日、モンセー、アンリ・フランソワ・ラボールトやジャン・アンリ・ギィ・ニコラ・ド・フレジュヴィル率いる師団から成る西部ピレネー軍が、スペイン軍の要塞化した拠点群を攻撃した。司令官はジャック・レオナール・ミュラーだったが、バスタン渓谷の戦いではモンセーが指揮を執った。エリソンドやドネステベ(サンテステバン)での戦闘で、モンセーはスペイン軍を敗走させた。その後7月後半に、フランス軍はビダソア川にそって北上し、サン・マルシャルとオンダリビアを攻撃した。後者の戦闘では、モンセーは8月1日にドン・ビセンテ・デ・ロス・レジェス以下2000人のスペイン兵と300門の大砲を捕獲した。8月3日にはサン・セバスティアンも抵抗せず開城し、1700人のスペイン兵と90門の大砲がフランス軍の手に落ちた。まもなくフランス軍はトロサも攻略し、モンセーは司令官に昇格した。 1794年8月14日、ギプスコアの議会(Juntas Generales)はサン・セバスティアンのブルジョワジーの支援の下にゲタリアに再結集し、フランス軍との間で緊迫した交渉が行われた。ここでギプスコアの評議会は、フランス軍の革命的な考えを受け入れるとともに、フエロに基づき正式にスペイン王国からの離脱を請願すること、ギプスコアがフランスに忠誠を誓うこと、カトリックの慣習から解放されること、状況に応じて戦時首長を置くことが取り決められた。しかし当時すでに後のバーゼルの和約に繋がる和平交渉が始まっていたことと関連して、フランス軍中にいた国民公会の代表ジャック・ピネとジャン・バティスト・カヴェニャックがこのギプスコアとの和平を蹴り、ギプスコア側の代表は投獄されるか逃亡した。9月13日に改めて別のギプスコア評議会が開かれ、スペイン王フェルナンド7世の助けを請うことが決まり、フランス軍に対抗するために義勇兵が召集された。しかし外交手腕でも上手であったモンセーにより、正確な時期は分からないもののギプスコアの政府は再建された。一方、スペインの首都マドリードではゲタリアで発された宣言の内容が瞬く間に広まり、政府や新聞上でバスク地方とその住民に対する激しい非難が起きた。それだけでなく、バイヨンヌで虜囚を受けた後のギプスコア代表たちに対し、スペイン政府は大逆罪や非愛国的行動の罪を着せようとするなど迫害を加えた。 10月15日から17日にかけて、モンセーはバスタン渓谷からイパニェタ峠に至る長大な前線からパンプローナに向けた攻勢をかけた。オルバイセタの戦いでは4万6000人のフランス軍が、ペドロ・テジェス・ヒロン率いる1万3000人のスペイン軍を破った。スペイン軍の損害は4000人と大砲50門で、フランス軍の損害は不明である。オルバイセタやエウヒの軍需工場や、スペイン海軍の帆の倉庫があったイラティなどもフランス軍の手に渡った。しかし冬が近づき陣中で疫病も発生したため、フランス軍はその年いっぱい進撃を中断せざるを得なくなった。11月7日にベルガラで1794年最後の衝突が起こり、フランス軍はカエターノ・ピニャテッリ率いる4000人のスペイン軍に対し、戦士150人、捕虜200人、大砲1門鹵獲という損害を与えた。この時ベルガラはフランスの支配下に置かれたが、半島戦争中にガブリエル・デ・メンディサバル・イラエタ率いるスペイン軍が奪回することになる。 冬の間に、モンセーは麾下の軍を再編成していた。この軍は戦闘や疫病で3000人を失っていた。攻城兵器を確保し、翌1795年6月に西部軍から1万2000人の援軍を加えられたモンセーは、6月28日に攻勢をかけ、クレスポのスペイン軍を追いやった。フランス軍は7月17日にビトリアを、19日にビルバオを攻略した。モンセーがエブロ川を渡りパンプローナを攻撃しようとしていた矢先、8月上旬にバーゼルの和約が成立したという知らせが届いた。
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