西ヒルズボロの開拓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 22:27 UTC 版)
「ピネラス郡 (フロリダ州)」の記事における「西ヒルズボロの開拓」の解説
1834年、ピネラス半島(当時は「西ヒルズボロ」と呼ばれていた)を含むフロリダの西中部が、ヒルズボロ郡として組織化された。その翌年、オデット・フィリップがセイフティハーバーのトコバガ族集落があった地近くに家屋を建て、この半島では非インディアンとして初の恒久的開拓者となった。フロリダに柑橘類の栽培と葉巻作りを持ち込んだのはフィリップである。 同じ頃、アメリカ陸軍がハリソン砦の建設を始め、ウィリアム・ハリソンに因んで命名した。第二次セミノール戦争の時は、近くのブルック砦の兵士が休息する基地となった。この新しい砦はクリアウォーター港を見下ろす崖の上にあり、そこは20世紀初期にハーバーオークスという住宅地の一部になった(現在は歴史保存地区)。アルフレッド・C・ワイルがその敷地に水泳プールを掘っていて、地下の弾薬貯蔵庫を発見した後、南フロリダ大学の考古学者達が1977年にこの地を発掘した。クリアウォーターは後に半島では最初の組織化された町となり、最初に郵便局が建てられた場所になった。 1842年に成立した武装占領法によってフロリダの各地と同様にピネラスにも入植が進み、武器を携行し、土地を耕す者なら誰にでも160エーカー (0.65 km2) の土地が提供された。その後ブース、コーチマン、マクマレンなど開拓者家族がこの地域に農園を開き、柑橘類の木を植え、牛を育てた。南北戦争の時代は、多くの住民がアメリカ連合国のために闘った。ジェイムズとダニエルのマクマレン兄弟はカウ騎兵隊の一員となり、戦争遂行を助けるためにフロリダの牛を追って、ジョージア州や両カロライナ州まで届けた。他にも多くの住民がそれぞれの役割で関わった。この戦争でピネラス半島では戦闘も起こらず、大過なく過ぎていった。 1887年、ターポンスプリングスが西ヒルズボロでは最初の法人化都市となり、1888年にはオレンジベルト鉄道が半島の南部まで延伸された。鉄道所有者のピーター・ディメンズが終着駅の近くに成長した町に、ロシアの故郷に因んでセントピーターズバーグと名付けた。この町は1892年に法人化された。この時期に法人化された町として他に、クリアウォーター(1891年)、ダニディン(1899年)、ラーゴ(1905年)があった。 米西戦争中の1898年、タンパ湾の湾口に望むミュレットキーで、デソト砦の建設が始まり、敵からの侵略に備えてタンパ湾を守ることとした。この砦は、隣接するエグモントキー(やはりタンパ湾口にある)のデイド砦の支所であり、大砲と迫撃砲の砲台を備えた。
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