西ブルガリア帝国とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 西ブルガリア帝国の意味・解説 

西ブルガリア帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 14:38 UTC 版)

サムイル (ブルガリア皇帝)」の記事における「西ブルガリア帝国」の解説

詳細は「西ブルガリア帝国(ドイツ語版)」を参照 しかし、地方長官マケドニア伯)の息子だったサムイルら4人の兄弟は、ヨハネス1世死後の東ローマ内紛乗じてブルガリア反乱起こしたサムイルボリス2世の弟ロマン1世英語版)の共同統治者として皇帝称しオフリダ現在のマケドニア共和国オフリド)に首都をおいた。西ブルガリア帝国(「サムイル帝国」とも)は瞬く間勢力拡大しバルカン半島西北部制圧さらにはギリシャ都市ラリサ占領したその後シメオンは、ヨハネス1世の後を継ぎ親征してきた東ローマ皇帝バシレイオス2世との対決勝利するトラヤヌスの門の戦い)。当時東ローマでは軍事貴族反乱相次いでいたこともあって、以後しばらくは東ローマ反撃できない状態が続きサムイル黒海からアドリア海に至るバルカン半島大半支配し東ローマには南部沿岸部しか残されなかった。 しかし、キエフ大公国援軍得て反乱鎮圧したバシレイオスは、990年頃から反撃開始したサムイルハンガリー王国との同盟などで対抗するが、997年スペルヒオス川の戦い契機徐々に劣勢に立たされてしまう。1000年頃から東側領土次々東ローマ奪われバシレイオス2世懐柔策により東ローマ帝国高官地位多額恩賞得た軍司令官たちが次々と東ローマ寝返っていった。その中にはブルガリア皇帝ペタル1世英語版)の息子ロマン1世などもいた。 1014年7月クレディオン峠の戦いサムイル東ローマ軍敗北するサムイル逃れたものの、バシレイオス2世送ってきた両目潰され1万4千人ものブルガリア人捕虜ぞろぞろやってくるのを見て卒倒し2日後1014年10月6日崩御した。 サムイル崩御後残され2人の息子将軍たちが抵抗していたが、4年後の1018年には東ローマ降伏している。

※この「西ブルガリア帝国」の解説は、「サムイル (ブルガリア皇帝)」の解説の一部です。
「西ブルガリア帝国」を含む「サムイル (ブルガリア皇帝)」の記事については、「サムイル (ブルガリア皇帝)」の概要を参照ください。


西ブルガリア帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 03:23 UTC 版)

ブルガリア帝国」の記事における「西ブルガリア帝国」の解説

詳細は「西ブルガリア帝国(ドイツ語版)」を参照 976年には独立回復したものの、マジャル(後のハンガリー王国)や東ローマ帝国にしばしば敗れた986年トラヤヌスの門の戦いから東ローマ帝国の対ブルガリア30年戦争英語版)(968年-1018年)が激しくなり、1014年にはクレディオン峠の戦いサムイル帝が戦死1018年ブルガリア東ローマ皇帝バシレイオス2世によって完全に併合し尽くされ、西ブルガリア帝国は滅亡した

※この「西ブルガリア帝国」の解説は、「ブルガリア帝国」の解説の一部です。
「西ブルガリア帝国」を含む「ブルガリア帝国」の記事については、「ブルガリア帝国」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「西ブルガリア帝国」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「西ブルガリア帝国」の関連用語

西ブルガリア帝国のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



西ブルガリア帝国のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのサムイル (ブルガリア皇帝) (改訂履歴)、ブルガリア帝国 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS