西ベルリンでのスパイ活動とは? わかりやすく解説

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西ベルリンでのスパイ活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 00:59 UTC 版)

カール=ハインツ・クラス」の記事における「西ベルリンでのスパイ活動」の解説

1955年春、クラス共産主義者共感覚えた旨を同僚語ったという。1955年4月19日クラス東ベルリンSED中央委員会訪問しシュタージエージェントに対してドイツ民主共和国市民となり、また人民警察のために働きたい旨を申し出た。彼は「シュトゥム(ドイツ語版)の警察はろくな仕事をしない」などと語っていたが、相手エージェント西ベルリン警察警察官として勤務しながらシュタージ非公式協力者 (IM) として活動する事を勧めた1955年4月29日クラスIMになる旨の誓約書署名した以後クラス国家保安省大ベルリン管区IV課 (Abteilung IV der Verwaltung Groß-Berlin der Staatssicherheit) 付エージェントコードネーム「オットー・ボール」(Otto Bohl)として活動開始したクラスのようなIV課のエージェント憲法擁護庁第I部(Abteilung I)にも多数潜入していたという。歴史家のヘルムート・ミュラー=エンベルクス(ドイツ語版)とコルネリア・ヤプス (Cornelia Jabs) は、西ベルリンにおけるシュタージ各種活動には確実に憲法擁護職員連合軍士官協力があったと指摘している。 東ベルリンにおけるクラス指揮官 (Führungsoffizier) は、シュタージ西ベルリン警察担当部局である第VII線 (Linie VII) から派遣されエージェント、ヴェルナー・アイゼルベック (Werner Eiserbeck) であった1965年、ラーヴェンスブリュック強制収容所から生還したことで知られる共産党員シャルロッテ・ミュラー(ドイツ語版)が連絡員としてクラス元へ派遣された。彼らはしばしば西ベルリン・ティーアガルテンのビアホール「シュロイゼンクルーク」(Schleusenkrug) を接触場所として利用した1956年には東ベルリンアジト40回もの会談が行われたという。この会談の中で、クラスシュタージに関する捜査資料機密文書コピーなどを提供した1956年2月10日クラスシュタージに関する捜査行なっている人物として西ベルリン刑事警察幹部のロベルト・ビアレク(ドイツ語版)の名を報告している。2月4日、ビアレクはシュタージエージェントによって誘拐暗殺された。1961年ベルリンの壁によるベルリン分断直前クラス通信機による最低週1回報告を行うように命じられた。 クラス少なくとも152つの西ベルリン警察内部文書複製または口述によって流出させた。彼はまた、盗聴用の警察官名簿住所等を記した人事書類提供したほか、必要に応じて西ベルリン市民車両登録証も複製していたという。1960年からは西ベルリン刑事警察での勤務移りベルリンの壁の「こちら側」における警察活動に関する諜報活動続けた1962年12月15日、「民主的ドイツ建国という目標元に本物民主的意志体現している」としてSEDへの入党申請行なった身分保証連絡員ミュラーが行なった。1964年1月15日入党認められる。またカモフラージュとして、西ベルリンドイツ社会民主党 (SPD) にも同時に入党している。 1965年1月クラス西ベルリン刑事警察第I部にて対シュタージ特別捜査班の班長任命された。捜査班に与えられ任務西ドイツ潜入しているスパイ捜索であり、彼は実際にシュタージエージェント尋問にも携わっている。しかし、クラス自分そうした任務付いている旨をあらかじめ各地連絡員通知しており、またシュタージに対しては「裏切り者処分担当したい」という申し出行なっている。 シュタージではクラスに対して盗聴器など多数装備提供しており、警察幹部からの情報収集を行わせていた。書類複製する際には超小型カメラ用いた。さらにクラスは「仕事熱心な警察官であったため、書類自宅持ち帰ることもある程度許されていたという。証拠品管理シュタージ通信傍受彼の任務であり、西ベルリンにおける捜査状況クラスによって完全に把握されていたのであるクラス西側身分露呈した逮捕されているIM亡命者密輸業者など名簿始めとするフォルダ5つ分の機密文書捜査班から持ち出しシュタージ情報提供している。これには24名のシュタージ職員逮捕記録含まれており、22歳西ベルリン市民ベルント・オーネゾルゲ(ドイツ語版)など少なくとも5名の「不要となったエージェント」らの情報含まれていた。オーネゾルゲの正体1967年英国諜報部によって看破されており、西ベルリン警察英国からの通報受けて捜査行なっていたのである1984年、オーネゾルゲはCIAスパイとしてブルガリア人民共和国逮捕され秘密軍事裁判所にてスタラ・ザゴラ収容所での懲役15年宣告された。1987年、オーネゾルゲは獄中自殺した。オーネゾルゲのように「処分」された人物に関する報告書では、クラス決しシュタージ関与について言及しなかった。 警察官として給与とは別にクラスシュタージからも数百西ドイツマルク毎月給与として受け取っており、1967年までに給与総額はおよそ20,000マルクになった1965年かねてから内部スパイ存在疑っていた西ベルリン警察では警察公安職員の中からスパイ容疑者リストアップして捜査計画立てたこの内少なくとも1人スパイであることが判明しており、クラスもまた容疑者1人として捜査対象となっていた。この秘密捜査計画は「夕映え作戦 (Abendrot) と呼ばれていたが、捜査内容シュタージ露呈しており、多くエージェントらは事前に警告受けて逮捕免れたクラス結局はスパイ疑いなしとして早々に捜査対象から外されている。

※この「西ベルリンでのスパイ活動」の解説は、「カール=ハインツ・クラス」の解説の一部です。
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