西ベルリンでのスパイ活動
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「カール=ハインツ・クラス」の記事における「西ベルリンでのスパイ活動」の解説
1955年春、クラスは共産主義者に共感を覚えた旨を同僚に語ったという。1955年4月19日、クラスは東ベルリンのSED中央委員会を訪問し、シュタージのエージェントに対してドイツ民主共和国市民となり、また人民警察のために働きたい旨を申し出た。彼は「シュトゥム(ドイツ語版)の警察はろくな仕事をしない」などと語っていたが、相手のエージェントは西ベルリン警察の警察官として勤務しながらシュタージの非公式協力者 (IM) として活動する事を勧めた。1955年4月29日、クラスはIMになる旨の誓約書に署名した。 以後、クラスは国家保安省大ベルリン管区第IV課 (Abteilung IV der Verwaltung Groß-Berlin der Staatssicherheit) 付エージェント、コードネーム「オットー・ボール」(Otto Bohl)として活動を開始した。クラスのような第IV課のエージェントは憲法擁護庁第I部(Abteilung I)にも多数潜入していたという。歴史家のヘルムート・ミュラー=エンベルクス(ドイツ語版)とコルネリア・ヤプス (Cornelia Jabs) は、西ベルリンにおけるシュタージの各種活動には確実に憲法擁護庁職員や連合軍士官の協力があったと指摘している。 東ベルリンにおけるクラスの指揮官 (Führungsoffizier) は、シュタージの西ベルリン警察担当部局である第VII線 (Linie VII) から派遣されたエージェント、ヴェルナー・アイゼルベック (Werner Eiserbeck) であった。1965年、ラーヴェンスブリュック強制収容所から生還したことで知られる共産党員シャルロッテ・ミュラー(ドイツ語版)が連絡員としてクラスの元へ派遣された。彼らはしばしば西ベルリン・ティーアガルテンのビアホール「シュロイゼンクルーク」(Schleusenkrug) を接触場所として利用した。1956年には東ベルリンのアジトで40回もの会談が行われたという。この会談の中で、クラスはシュタージに関する捜査資料や機密文書のコピーなどを提供した。1956年2月10日、クラスはシュタージに関する捜査を行なっている人物として西ベルリン刑事警察幹部のロベルト・ビアレク(ドイツ語版)の名を報告している。2月4日、ビアレクはシュタージのエージェントによって誘拐、暗殺された。1961年、ベルリンの壁によるベルリン分断の直前、クラスは通信機による最低週1回の報告を行うように命じられた。 クラスが少なくとも152つの西ベルリン警察内部文書を複製または口述によって流出させた。彼はまた、盗聴用の警察官名簿や住所等を記した人事書類を提供したほか、必要に応じて西ベルリン市民の車両登録証も複製していたという。1960年からは西ベルリン刑事警察での勤務に移り、ベルリンの壁の「こちら側」における警察活動に関する諜報活動を続けた。 1962年12月15日、「民主的ドイツの建国という目標の元に本物の民主的意志を体現している」としてSEDへの入党申請を行なった。身分の保証は連絡員のミュラーが行なった。1964年1月15日、入党が認められる。またカモフラージュとして、西ベルリンのドイツ社会民主党 (SPD) にも同時に入党している。 1965年1月、クラスは西ベルリン刑事警察第I部にて対シュタージ特別捜査班の班長に任命された。捜査班に与えられた任務は西ドイツに潜入しているスパイの捜索であり、彼は実際にシュタージのエージェントの尋問にも携わっている。しかし、クラスは自分がそうした任務に付いている旨をあらかじめ各地の連絡員に通知しており、またシュタージに対しては「裏切り者の処分を担当したい」という申し出を行なっている。 シュタージではクラスに対して盗聴器など多数の装備を提供しており、警察幹部からの情報収集を行わせていた。書類を複製する際には超小型カメラを用いた。さらにクラスは「仕事熱心な警察官」であったため、書類を自宅へ持ち帰ることもある程度は許されていたという。証拠品の管理やシュタージの通信傍受も彼の任務であり、西ベルリンにおける捜査状況はクラスによって完全に把握されていたのである。 クラスは西側で身分が露呈したり逮捕されているIMや亡命者、密輸業者など名簿を始めとするフォルダ5つ分の機密文書を捜査班から持ち出し、シュタージに情報を提供している。これには24名のシュタージ職員逮捕の記録が含まれており、22歳の西ベルリン市民ベルント・オーネゾルゲ(ドイツ語版)など少なくとも5名の「不要となったエージェント」らの情報が含まれていた。オーネゾルゲの正体は1967年に英国諜報部によって看破されており、西ベルリン警察も英国からの通報を受けて捜査を行なっていたのである。1984年、オーネゾルゲはCIAのスパイとしてブルガリア人民共和国で逮捕され、秘密軍事裁判所にてスタラ・ザゴラの収容所での懲役15年を宣告された。1987年、オーネゾルゲは獄中で自殺した。オーネゾルゲのように「処分」された人物に関する報告書では、クラスは決してシュタージの関与について言及しなかった。 警察官としての給与とは別に、クラスはシュタージからも数百西ドイツマルクを毎月の給与として受け取っており、1967年までに給与の総額はおよそ20,000マルクになった。 1965年、かねてから内部スパイの存在を疑っていた西ベルリン警察では警察・公安職員の中からスパイ容疑者をリストアップして捜査計画を立てた。この内、少なくとも1人はスパイであることが判明しており、クラスもまた容疑者の1人として捜査対象となっていた。この秘密捜査計画は「夕映え」作戦 (Abendrot) と呼ばれていたが、捜査の内容はシュタージに露呈しており、多くのエージェントらは事前に警告を受けて逮捕を免れた。クラスも結局はスパイの疑いなしとして早々に捜査対象から外されている。
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