「二国論」の波紋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 05:12 UTC 版)
李登輝再選後、中国は露骨な軍事的威嚇をひとまずやめ、台湾の後ろ盾である米国との関係改善に意を注いだ。1997年10月に江沢民の公式訪米が実現、1998年6月にはクリントン大統領から台湾独立、一中一台、台湾の国連等加盟に対する不支持(三つのノー)を引き出すことに成功した(ただし口頭の発言であり、公式文書化されてはいない)。さらに江八点に基づく統一交渉を再び呼び掛け、1998年10月に第二次辜汪会談が開かれたものの実質的な関係進展はみられなかった。 中国の攻勢に危機感を強めた李登輝は、後に民主進歩党主席から第7代総裁となる蔡英文らとともに中台関係の法的位置づけの見直しに着手し、1999年7月、ドイツの放送局ドイチェ・ヴェレのインタビューで「台湾と中国は特殊な国と国の関係」と表明した(二国論)。中国はこれを徹底批判し、汪道涵海協会会長の訪台キャンセルや軍事威嚇(戦闘機の台湾接近)で対抗した。中台間の緊迫は台湾大地震の発生でひとまずやみ、李登輝政権も中台緊張を危惧する国際世論に配慮して二国論に基づく憲法改正に踏み込まなかった。
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