中部ソロモン諸島の戦い
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「夕凪 (2代神風型駆逐艦)」の記事における「中部ソロモン諸島の戦い」の解説
1943年(昭和18年)3月18日に夕凪は佐世保に戻り、一部の機関や主砲・魚雷を撤去して対空火力を増設し、甲板に大発動艇2基を搭載するなどの改修工事を行った。4月1日、日本海軍は戦時編制の改定をおこなう。第29駆逐隊が解隊され、夕凪は再び南東方面を担当する第八艦隊(司令長官鮫島具重中将)に編入された。改修を終えた夕凪は6月11日に佐世保を出撃して、ラバウルに進出する。6月下旬以降、第八艦隊麾下の睦月型・神風型駆逐艦(望月、夕凪、長月、皐月、水無月、三日月)は交替でコロンバンガラ島輸送に従事した。 詳細は「クラ湾夜戦」を参照 連合軍は6月30日にレンドバ島に上陸を開始、ニュージョージア島の戦いが始まった。日本軍は揚陸・補給部隊の撃滅を計画し、7月1日の第一次突入作戦では、第三水雷戦隊所属の駆逐艦複数隻(ブカ島所在〔天霧、初雪〕、ブイン所在〔長月、水無月、三日月〕)が先行、第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将直率の駆逐艦4隻(新月〈三水戦旗艦〉、望月、皐月、夕凪)としてラバウルを出撃、7月1日未明にレンドバ島周辺を捜索したが会敵しなかった。7月2日の第二次作戦では陽動隊(夕張、三日月、夕凪)としてブインを出撃、会敵せず3日朝に帰投した。 連合軍のレンドバ島とニュージョージア島進攻にともないコロンバンガラ島の日本陸軍への輸送が急務となった。第一回輸送隊を第22駆逐隊司令金岡国三大佐指揮下の駆逐艦4隻(夕凪、長月、皐月、新月)で編成、4日夕刻にブインを出撃した。同日深夜、クラ湾でニュージョージア島の日本軍砲台と交戦中の米艦隊(司令官ヴォールデン・L・エインスワース少将)を発見、輸送を中止して僚艦と共に魚雷を発射した(長月6本、新月4本、夕凪4本)。米駆逐艦ストロングに魚雷が命中し、ストロングは陸上からの砲撃も受けて沈没した。輸送隊は5日朝、ブインに戻った。 この頃、軽巡洋艦夕張が機雷により損傷したので、第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将は引き続き秋月型駆逐艦新月に三水戦の将旗を掲げた。夕張は内地に戻って修理を余儀なくされ、ラバウルに再進出したのは11月3日であった。続く7月5日、警戒部隊(新月、涼風、谷風)、輸送隊(望月、三日月、浜風、夕凪/天霧、初雪、長月、皐月)という編成でコロンバンガラ島へ出撃予定であったが、夕凪は出撃しなかった。迎撃に出てきた米艦隊との間で夜間水上戦闘になり、新月と長月が沈没する。新月沈没時に外南洋部隊増援部隊指揮官秋山輝男少将(第三水雷戦隊司令官)が戦死して、第三水雷戦隊司令部は全滅した。後任の三水戦司令官は伊集院松治大佐となったが、新司令官到着まで鳥海艦長有賀幸作大佐が臨時に増援部隊の指揮をとり、また新司令部の準備がととのうまで第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将が増援部隊を指揮する。 輸送隊の護衛が強化され、外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官)は、麾下水上部隊の全力で輸送と敵艦隊撃滅を試みた。7月9日夕刻、ニュージョージア方面(主隊〈鳥海、川内〉、警戒隊〈雪風、夕暮、谷風、浜風〉)、第22駆逐隊司令指揮下の輸送部隊(皐月、三日月、松風、夕凪)としてブインを出撃する。連合軍艦隊とは会敵せず、輸送部隊はコロンバンガラ島に成功、全部隊はブインに帰投した。 詳細は「コロンバンガラ島沖海戦」を参照 7月12日、本艦は輸送隊(皐月、水無月、松風、夕凪)としてコロンバンガラ島へ出撃し、これを増援部隊指揮官(伊崎少将)指揮下の警戒隊(軽巡〈神通〉、駆逐艦〈清波、雪風、浜風、夕暮、三日月)が護衛した。12日深夜、日本軍輸送隊はエインスワース少将の米艦隊と遭遇し、夜間水上戦闘になる(コロンバンガラ島沖海戦)。この間に輸送隊は13日0時過ぎに揚陸を開始、約1時間で全輸送に成功した。日本艦隊は同日ブインに帰投したが、神通が沈没して第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将は戦死。二水戦司令部は全滅した。 夕凪は18日の輸送作戦でも輸送隊に編入されていたが、同日のブイン空襲で損傷したため同行しなかった。同日夜、警戒・輸送隊はクラ湾で夜間空襲を受け、重巡熊野が大破、清波と夕暮が沈没するなど一方的な損害を受けた。 7月20日、日本海軍は第四水雷戦隊を解隊して第二水雷戦隊に編入し、四水戦司令官高間完少将を第二水雷戦隊司令官に任命した。夕凪はラバウルで応急修理した後、30日に水無月と共に輸送船白山丸、国川丸を護衛して出発、8月2日にトラック泊地に到着。サイパンを経由して内地に帰投した。 修理を終えた夕凪は、9月21日に佐世保を出撃する。サイパン、トラック泊地を経由して29日ラバウルに戻った。10月初頭、コロンバンガラ島からの撤退作戦(セ号作戦、第二次撤収作戦)に参加したが、松風と夕凪は故障のため途中で引き返している。10月6-7日のベララベラ島撤退作戦では、警戒部隊(秋雲〔第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐〕、磯風、風雲、夕雲、時雨、五月雨)および第22駆逐隊司令指揮下の輸送部隊(文月、松風、夕凪)という編成で出撃する。作戦中に米軍水雷戦隊の間で夜間水上戦闘になった(第二次ベララベラ海戦)。その後も夕凪は第三水雷戦隊や応援部隊の各艦と共に、最前線の輸送任務に従事した。 詳細は「第二次ベララベラ海戦」を参照 11月1日に米軍がブーゲンビル島に上陸し、ラバウル在泊の第五戦隊(重巡妙高、羽黒)を中心に逆上陸作戦が計画された(ブーゲンビル島沖海戦参照)。本艦は第11駆逐隊司令山代勝守大佐が指揮する輸送隊(天霧〈旗艦〉、文月、水無月、卯月、夕凪)として作戦に従事する。だが、陸戦隊の搭乗に手間取り作戦が2時間遅れたため、夕凪の最大戦速26ノットでは遅れを回復する見込みがなく、逆上陸は中止された。ブカ島に向かった水無月以外の輸送隊は、ラバウルに帰投した。11月5日、米軍機動部隊(サラトガ、プリンストン)はラバウルに空襲を敢行、重巡愛宕(第二艦隊旗艦)や摩耶など多数の艦艇が損害を受けた(ラバウル空襲)。ちょうどこの時、艦長予定の駆逐艦望月が沈没したため(10月24日)、海軍陸戦隊に赴任していた岩淵悟朗少佐が夕凪駆逐艦長として着任した。前任の古川少佐が病気で倒れたためだったという。日本軍は逆上陸作戦への望みを捨てておらず、11月6日に第31駆逐隊司令香川清登大佐指揮下の挺身輸送部隊(警戒隊〈大波、巻波〉、輸送部隊〈天霧、文月、卯月、夕凪〉)としてラバウルを出撃する。支援部隊や航空部隊の掩護を受け、7日午前0時過ぎにタロキナに到着、陸軍部隊を揚陸し、同日午前にラバウルに帰投した。 先のブーゲンビル島沖海戦で軽巡洋艦川内が沈没し、第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将は軽巡夕張に将旗を掲げた。11月11日の第二次ラバウル空襲により、在泊中の水雷戦隊も駆逐艦涼波が沈没、軽巡阿賀野と駆逐艦長波が大破するなど大損害を受け、第二水雷戦隊と第十戦隊はトラック泊地に撤収した。第三水雷戦隊は残存兵力(夕張、夕凪、大波、巻波、天霧、夕霧、秋風、文月、卯月、水無月)でニューブリテン島への夜間輸送を実施、空襲に悩まされながらも任務を遂行した。だが25日にセント・ジョージ岬沖海戦で第三水雷戦隊の残存3隻が一挙に沈没した。ブーゲンビル島方面への駆逐艦輸送作戦は中断された。12月上旬は夜間輸送の難しい月明期であったため損傷艦はトラック泊地に後退し、第三水雷戦隊司令部は陸上に移動、ラバウルに残った水上艦は3隻(天霧、秋風、夕凪)であった。 12月11月、夕凪はラバウルで座礁した。13日にも船団救援中にニューアイルランド島カビエン沖で座礁し、B-24爆撃機の爆弾1発が命中するが不発で難を逃れた。14日に水無月の曳航で離礁し、同日深夜にラバウルに戻った。16日、第三水雷戦隊司令官は伊集院松治少将から中川浩少将に交代した。ニューブリテン島周辺への駆逐艦輸送作戦が再開され、応急修理を終えた夕凪も加わる(12月下旬の輸送実施艦は、夕凪、水無月、皐月、文月、松風、太刀風、漣、曙)。しかし28日に機関故障を起こし、速力が22ノットまで低下した。29日、特設運送船清澄丸を第22掃海艇と共に護衛し、カビエン経由でトラックに向かった。 1944年(昭和19年)1月1日夜、米潜水艦バラオの雷撃により清澄丸が大破した。夕凪と掃海艇では曳航できず、軽巡那珂と駆逐艦谷風、軽巡大淀と駆逐艦秋月などが救難に協力し、清澄丸はトラックに入港した。1月中旬、軽巡長良はラバウル空襲で大破した夕雲型駆逐艦長波(第31駆逐隊)を曳航して内地に戻ることになり、駆逐艦2隻(夕凪、卯月)は両艦を護衛した。日本近海で呉にむかう長良と長波を分離し(24日、徳山入港)、夕凪と卯月は佐世保に帰投した。夕凪は機関などの修理に入った。
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中部ソロモン諸島(ニュージョージア諸島)の戦い
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日本軍のガダルカナル島撤退後、連合軍の進撃は次の作戦(カートホイール作戦)の準備と休養のため小休止となり、日本軍は中部ソロモン諸島と東部ニューギニアの防衛の強化に努めた。ただ、この間も戦闘は続いており、その主なものはラバウルからニューギニアへ向かっていた日本の輸送部隊の壊滅(ビスマルク海海戦)、日本軍による連合軍に対する大規模な航空作戦(い号作戦)、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死(海軍甲事件)である。連合軍は小休止のあと、南太平洋方面の日本軍の一大拠点ラバウルに向けてソロモン諸島とニューギニアの両方から前進を開始する(カートホイール作戦)。ソロモン諸島方面の連合軍の最初の行動は中部ソロモンのニュージョージア島のムンダ飛行場の奪取を目的としたものである。 以後のこの海域の戦いは、ソロモン諸島沿いにラバウルに向かうアメリカ軍が飛行場を確保するために行った作戦と、これに反撃する日本軍の間で発生した戦闘である。
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