中部ダム計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/26 18:04 UTC 版)
かつて、加茂川の中流にダムを作る計画があった。この「中部ダム」は、加茂川と下谷川の合流地点付近に建設され、これによって小河内地区より下流の福田・下谷地区が水没することになっていた。計画は昭和40年代から始まったが、バブル経済の崩壊や県知事の交替などを経て、27年後の平成12年(2000年)に中止が決まり、水没予定地から既に移転してしまった世帯などへ補償が行われた。 この計画は昭和40年代後半に立案され、天神川下流の倉吉市や羽合町(のちの湯梨浜町)の利水と治水のためのダムとされていた。平成4年(1992年)に策定された計画では、総工費200億円、貯水量790万m3となっており、一日あたり15,000m3の水道用水を賄うとしていた。その後計画の見直しが行われ、平成8年(1996年)の修正案では貯水量590万m3、水道用水の供給量は一日8,000m3に引き下げられ、これにともなって工費は140億円に節約できると見積もられた。当時の説明では、これは河川改修に要する費用147億円を下回っており、河川改修よりも合理的であるとされた。 しかし、この事業はその後も再評価の対象となった。平成11年(1999年)にそれまで4期に渡り鳥取県知事を務めた西尾邑次が引退し、新人の片山善博にかわると、改めて工費の再検討が行われた。この結果、平成8年の計画とほぼ同等のダム建設でも230億円を要することが示された。これに対し、河川改修は78億円で済むうえ、人口はせいぜい横ばいまでであり、水道用水の需要の増加も見込めないため、2000年にダム計画は正式に中止が決まった。 既にダム建設などを見越して引っ越してしまった世帯があったり、計画が足踏みしていた約30年のあいだインフラ整備が見送られていたことなどによって、建設予定地域は荒廃しており、県知事が地元に謝罪するとともに、地域再整備などのため国・県・町があわせて168億円を拠出することになった。この「旧中部ダム予定地」は、大型ダムの建設中止とその後の地域振興のあり方についてのモデルケースとして、八ッ場ダム(群馬県)や矢田ダム(高知県)など、計画の賛否がわかれた事業でも参考にされている。
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