ニューギニア重視の姿勢
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「ビスマルク海海戦」の記事における「ニューギニア重視の姿勢」の解説
1942年(昭和17年)12月31日の大本営御前会議において、日本軍はガダルカナル島からの撤退を正式に決定する。ガ島撤収後は北部~中部ソロモン群島の防備を固めるとともに、東部ニューギニアでの作戦も重視することになった(翌年1月4日、大陸命第732号、大海令第23号など)。昭和天皇は「ただガ島を止めだだけではいかぬ。何処かで攻勢に出なければならない。」と指導したので、大本営はニューギニア作戦に重点を置くことになった。大本営陸軍部は、陸地続きのニューギニア戦線ならば負けるはずがなく、ポートモレスビー包囲も努力次第では可能とみていた。またラバウルに根拠地をおく第八方面軍(司令官今村均陸軍中将)の任務は「第八方面軍司令官ハ大陸命第七百十五号ニ拘ラス海軍ト協同シ「ソロモン」群島及「ビスマルク」群島ノ各要域ヲ確保スルト共ニ「ニューギニヤ」ノ要域ヲ攻略確保シテ同方面ニ於ケル爾後ノ作戦ヲ準備スヘシ」(昭和18年1月4日、大陸命第732号)と定められた。大本営の強気とは裏腹に、第八方面軍はニューギニア戦線についても悲観的な見方をしていた。実際問題としてニューギニア方面の制空権は連合軍が掌握しており、日本軍の駆逐艦輸送(鼠輸送)ですら空襲を受けて損害を受ける事例が増えていた。 1943年(昭和18年)2月1日から2月7日にかけて、日本軍はガダルカナル島から撤退した(ガダルカナル島撤収作戦)。同時期、連合軍はニューギニア島方面でも攻勢に出ており、日本軍はパプアニューギニア方面の戦いでも窮地に追い込まれる。1月2日には東部のブナ守備隊が玉砕していた(ポートモレスビー作戦)。1月13日には、第十八軍がブナ支隊長(独立混成第21旅団長山縣栗花陸軍少将)にラエ・サラモアへの後退命令を発令、1月下旬より撤収作戦がはじまった。ブナ支隊は2月上旬までに撤退した。そこで日本軍は大本営(昭和天皇出席)指導のもと、連合軍の次の攻撃目標と予測されるパプアニューギニアの各拠点に陸軍部隊を送り、侵攻に備えることにした。この作戦に投入された日本陸軍第51師団は、ガダルカナル島攻防戦投入を予定して、12月中旬に中国大陸からラバウルに到着(八号演習輸送)。ガ島攻防戦の戦局変化および終結にともない、ラバウルで足止めされていた部隊であった。 詳細は「ラエ・サラモアの戦い#背景」を参照 1943年(昭和18年)1月初頭に実施されたラエへの第51師団輸送作戦「十八号作戦」は、駆逐艦5隻と輸送船5隻の船団が1月5日にラバウルを出発、7日-8日に歩兵第102連隊からなる岡部支隊が現地に到着した。輸送船2隻を失ったが、作戦はおおむね成功した。1月中旬から下旬にかけてウェワク方面に対し「丙一号輸送」が実施され、成功した。 詳細は「ラエ・サラモアの戦い#第十八号作戦」を参照
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