ニューギニア作戦
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「第5師団 (日本軍)」の記事における「ニューギニア作戦」の解説
詳細は「ニューギニアの戦い」を参照 1942年7月18日、南海支隊は戦車中隊と近接支援砲兵中隊の増援を受けて、1942年7月31日にポートモレスビー作戦への参加を命ぜられた。1942年8月16日にラバウルの中継地点に到着し、1942年8月19日に矢沢支隊は聖川丸、妙高丸乗船して、1942年8月21日ニューギニア島のゴナに上陸した。ココダ道の戦いの間、矢沢支隊は予備兵力として待機していた。ココダ道の戦いが内陸に進んだ1942年9月6~9日の峠での戦いの間、矢沢支隊はブナ近辺のギルア川口への道を開き、そこで1942年9月24日から始まった補給物資や増援部隊の揚陸の安全を確保していた。1942年10月29日、144連隊などの退却の援護のため、矢沢支隊は内陸のオイヴィ谷で防御に当たっていた。1942年11月4日、オーストラリア軍が優勢な兵力で攻撃し、矢沢支隊を潰走させた。矢沢支隊の残る900名は辛うじて包囲を脱出して北東のAjura Kijala山地の密林の中へ逃げた。オイヴィ谷に残っていた部隊は1942年11月28日までに掃討された。矢沢支隊の敗残兵は11月28日までにゴナの北のクムシ川河口付近に到達したが、重装備を全て放棄してきた上にマラリア罹患率がほぼ100%であったため、ほぼ戦闘力を失っていた。このため、マラリヤにやられた兵の大部分は11月29日にギルア河口まで上陸用舟艇で送られたが、連合軍の航空攻撃により海上で数百名を失った。健康な兵は陸上行軍して12月2日にギルア河口に到着した。1942年12月31日、矢沢大佐は敗残兵を寄せ集めた混成部隊を伴って、ブナへの絶望的な救援任務を命令した。1943年1月2日、ブナが陥落し、任務は撤回されたが、それでもなお矢沢支隊は連合軍の戦闘哨戒隊と戦闘してブナから逃げてくる約190名の兵の救出した。1943年1月20日、ゴナへの撤退が失敗し、矢沢支隊は壊滅した。日本軍の前線に戻れたのはわずか数名のみであった。
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