あ号作戦計画
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日本海軍は、マリアナ諸島〜カロリン諸島〜西部ニューギニアを結ぶ三角地帯に邀撃帯を設けて、機動部隊と基地航空隊により、アメリカ軍侵攻部隊に対して一大反撃を加える作戦を構想、1944年5月3日軍令部による「連合艦隊ノ当面準拠スベキ作戦方針」で決戦構想の「あ号作戦」が策定された。決戦地の選定にあたって、日本海軍はアメリカ軍の侵攻が西カロリンのパラオ諸島とマリアナのどっちが先かはなかなか判断できなかったが、結果的にパラオが先という判断となった。日本海軍は作戦準備として第一機動艦隊(空母9隻、搭載機数約440機)を新設すると共に基地航空隊の第一航空艦隊を中部太平洋に配置した。機動部隊の艦載機と航空基地からの陸上機によって、アメリカ軍の侵攻艦隊を挟撃して撃滅しようという作戦計画であったが、第1航空艦隊の基地航空隊は定数1,750機と表面上は大戦力ながら、実際に配備されたのはその半数の750機でうち可動機は500機程度にすぎなかった。 一方で、アメリカ統合参謀本部のマリアナ侵攻決定に激怒したマッカーサーであったが、ニューギニア作戦の集大成と、ニミッツによるフォレージャー作戦支援の航空基地確保のため、ニューギニア西部のビアク島攻略を決めた。ビアク島には日本軍が設営した飛行場があり、マリアナ攻略の航空支援基地として重要な位置にあった。1944年5月27日に第6軍 司令官ウォルター・クルーガー中将率いる大部隊がビアク島に上陸しビアク島の戦いが始まった。ビアク守備隊支隊長の歩兵第222連隊長葛目直幸大佐は、上陸部隊を内陸に引き込んで、巧みに構築した陣地で迎え撃つこととした。第41歩兵師団(英語版)は日本軍守備隊の巧みな戦いで苦戦し、マリアナ作戦が迫っているのに、ビアク島の攻略が遅遅として進まないことでニミッツに対して恥をかくと考えたマッカーサーは、師団長ホレース・フラー(英語版)少将を上陸部隊司令官と第41歩兵師団師団長から更迭した。しかし、師団長を挿げ替えても戦況が大きく好転することはなく、ビアク島の飛行場が稼働し始めたのは6月22日になり、サイパンの戦いにもマリアナ沖海戦にも間に合わなかった。ビアク島攻略後にマッカーサーはフラーの名誉を回復させるため功労勲章(英語版)を授与したが、ビアク島の戦いはマッカーサーにとっても、フラーにとっても敗戦に近いような後味の悪い戦いとなった。 大本営は、アメリカ軍の次の侵攻先を判断しかねていたが、ビアク島にマッカーサーが侵攻してきたことによって、連合軍の戦力が一本化して西部ニューギニアからパラオ諸島に侵攻してくると誤った判断をし、「渾作戦」を発動した。大和、武蔵の戦艦部隊を送って、アメリカ軍機動部隊の誘引を図ると共に、マリアナの第1航空艦隊第61航空戦隊の可動350機の約半数も作戦への投入が決定され、インドネシアのモルッカ諸島にあるハルマヘラ島に飛び立った。これらビアクを巡る戦いによって、アメリカ軍にその意図はなかったが、結果的に陽動となって日本軍の関心はビアクに集中してしまい、マリアナへのアメリカ軍の侵攻を許すこととなってしまった。
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